子宮礼賛

ものすごく当たり前のことで、
普段、そのような意識をする人など
皆無ですが(別に悪くない)、
人だけにとどまらず、動物というものは
その誕生の時まで、
必ず子宮で過ごし、育ちます。

結果論として、
自分の身の回りに存在する
「生きるもの」はもとより、
「無生物」である「もの、製品」でさえ
かつて子宮で育った人が作ったものなのです。

少なくとも
「人間社会のルーツは子宮にある」のです。

子宮に宿った命は、
新しい「愛」を宿し、
やがて産まれ、育ち、大人になった時、
また誰かを愛し、
互いに愛し合った結果として、
再び子宮から新しい愛を
産み出す器官であるとも言えます。

「人の在り方、真理」として
理解するならば、
礼賛されてしかるべき
神聖な器官なのです。

生物学的な定義はそうであろうとも、
ただ動物的、いや機能的に
「繁殖」するための臓器ではありません。

まして、精子を排泄する
便器であるわけがありません。

誰しもが想像してほしいことがあります。

今、自分の周りを見回した時、
そこにあるのは誰の世界でしょうか。
それは自分の世界です。
自分が中心になって展開している現実です。
そして、認識を広げれば
自分という中心の基礎には
自然があり、宇宙があるのです。
自然や宇宙の理という法則によって
「今、自分という存在」は
認識されるものなのです。

今、自分が宇宙を思い浮かべる時、
そこに宇宙があります。
その宇宙の特定の時空の「点」が
自分であり、自分を存在たらしめるために
それは遍在するものとして
自分が思い浮かべるよりずっと前から、
思い浮かべられることを
ずっと待っていたかのように
宇宙は存在しているのです。

故に、
「自己は宇宙と等価である」と
言ってもいいでしょう。

インド哲学で言うところの
ブラフマンとアートマンのイメージに
近いかもしれません。

そういうスケールのものを
産み出す器官が子宮だということ。

母性とは、
ここでいう母性とは、
前の記事て僕が言ったような
「絶対母性」というものは、
『生きて育っていきたい』という
主体となる力の発現であって、
その裏返し、つまり客体として
一般的に定義されるところの
『産んで育てたい』という
人としての本能の発露へ繋がるものなのです。

そしてこれが「自然の力の根源」です。

これが自然の営みとして
愛を生じさせ、
子宮を経て、
延々と新しい宇宙を創造し続けるのです。

新しい宇宙を創造する力の
「入り口」あるいは「出口」として、
さらには、産まれたての火を消さないため、
「子」を守るための「宮」として
考えるならば、
それだけで十分、
礼賛に値する存在であると言えるのでしょう。

全てはここへ「入ってきて」
そして育って「出て行く」のです。

女性の身体に有する「子宮」も
人の生も、家族も、
地球も、宇宙も、
入ってきて、育ち、巣立っていくのでしょう。
あるいは、宇宙も地球も、家族も、
そして人の生も、
女性の身体器官の子宮と
同質の環境だと言えるかもしれません。

ここにある存在は、
それより少なくとも大いなる次元の
子宮を育っているかもしれません。