対価

お金というものは、
ものの価値やエネルギーの量を
その数量を同じ軸上で客観的に判断するためには、
有用なツールでした。
これによって取引は
公平になされるものでした。

例えば、リンゴ1個¥100で売っていたとします。
リンゴが欲しいなら¥100必要なのですが、
ここで人は大きな勘違いをしたのです。
¥100持っていないと
リンゴが手に入らない、と。

こういう固定観念が蔓延すると、
¥100を手に入れるための
取引としてリンゴが必要となります。
そもそも手元にないリンゴを
わざわざどこかへ赴いて、
あるいは木を育てて、
リンゴをお金に変えようとする人が出てきます。
そして¥100では見合わなくなって
知らないうちにそれは¥110となり、
やがて¥120、そして¥200となっていくでしょう。

なぜそうなるのか。

それは、
もともとそこにはないのに
無理に手に入れようとするからです。
それはリンゴそのものが欲しいという人も、
そして、換金するためにリンゴが欲しいという人も
同等のことです。

そこにはないものを
手に入れようとするから、
エネルギーは浪費し、
浪費した分を埋め合わせるために、
¥100のリンゴが¥200になったりするのです。

こうして構成された消費のエネルギーから
こっそり必要以上に換金して、
自分の儲けにすることを、
「収益」と言います。

貨幣制度自体は、
ものを極力等価に交換するために
重要な概念であり、
それ自体は悪ではないのですが、
これを溜め込むことと、
溜まったそれをちらつかせて
他者を支配しようとする人が現れたことで、
お金が崇拝の対象になってしまったのです。

この信仰は、
人の欲求や欲望を煽ることで
お金を奪い、
また奪った者もまた
欲望に耽溺する事象の当事者となるのです。

そもそも人間の歴史というものは、
より多くを奪った者が勝者となる
そういう歴史を歩んできました。

こうした世界にとって
貨幣制度は
とても効率の良い支配方法となりえたのです。

経済もそうですが、
それを支える産業さえも、
結局、人を豊かにしたように見えて、
実は本質的には貧しくさせているのです。

世界中の誰しもが
満たされることを知らぬまま貪る世界。

貪るために
ものの価値は
無為に、不当に、そして虚偽に
日々、つり上がっているのです。