命の図面

自分の生涯をどう過ごすか。

おそらく、
「人間」というものの存在の
意味から考え直すに、
どうやら、ただ単に
費消し浪費するのみの存在では
ないのだと思うのです。

いや、さらに大きな観点からすれば
消費に耽溺するのも、
全体の中の一つの要素としてその存在は
意義を認めることができるのかもしれませんが、
それでもやはり、
根本的には人類というものは
「食いつぶす存在」として
この世界に現れたわけではないし、
また、一個人たる「人」もまた、
基本的には
食いつぶすために生まれてきたのでは
ないのでしょう。

あるいは、
食いつぶすために生を受けたのかもしれないけれど。

そう考えると、
人にとって
消費したり蓄えたりという行為そのものが、
さして意味がないのでしょう。

一方で汗水垂らして働き、蓄えるものもいれば
もう一方では、
何もせずに食いつぶしていくものもいる。

大きな目で見れば
そこには「何もない」のです。
プラスマイナスゼロの結果が
「初めから存在していた」だけに過ぎないのです。

でこぼこの世界観を生きるうちは、
まだ峠の先や、そのてっぺんの景色も遠いし、
昇っては下るという行為に
エネルギーも生まれるのでしょう。

しかし、やがて平坦な世界にたどり着くのです。
というか、もともと平坦だったのでしょう。
今すぐにという話ではないのですが、
そう遠くはない未来、
人間は平坦な世界へ行き着くだろうと思えます。

つまり、
蓄えるものがいれば、
それを奪うものがいて、という
繰り返しを続けていくと
次第に人類は疲弊していくという意味でもあります。

映画や漫画や小説のような、
劇的なシナリオはないかもしれません。
けれどおそらく、
気づいたら「そのような感じの世の中」に
なっているでしょう。

そして何も無くなって、
本来の人と世界の在り方に戻っていくのです。

こうなった時、
人は問われます。

この先も
「命を消費していくのか」
あるいは
「命を使っていく模索を始めるのか」と。

まだまだ人類は
「命」の使い方を知りません。
「命」という現象そのものの定義自体が
まだまだ針の穴ほどに狭い。

「命」は使うものだと決意した時、
人は「命の図面」を手に入れるのだと思うのです。