奉仕は目的か手段か

「奉仕」という概念に
果たして対価が発生する
必然があるのかと、問うてみたいと思います。

ここでまず明示しておかなければならないことは、
「奉仕」の概念の軸を
手段に置くか、
あるいは目的の置くかの違いで
その解は真逆なものになるのかもしれません。

まず「奉仕」を手段として捉える時、
それはおそらく「奉仕」を施す人自身が
生きるために行われるであろうものであるということ。
これはこれで否定すべき理由は何もないのですが、
それでも贔屓目に見たところでも
「奉仕」そのものの行使という点からすれば
いささか的が外れてしまうのかもしれません。

「奉仕」を目的と設定し、
そこから対価を得て生きていくことは
ごく日常的な人の営みであることは
間違いないでしょう。

しかしただそこに、
「奉仕を施す立場と受ける立場の
両者によって構成される場」の
純然性が保たれるかどうかとなると
そういうわけでもないのではないかという気もします。

「奉仕」を施すことが目的となった時、
為す側と受ける側の関係性に
確固とした信頼関係が構築されていない限り、
往往にしてそこには
主従関係のような「差異」のある
関係性に陥りやすく、
また、施す立場からしても
そこには「生きていくための術」という
「社会」に対する依存の関係構造に
没入してしまっていはいないかという点に
着目すべきなのだと思われます。

ここに目を向けると、
そこ、つまりその関係構造の中には
「己の自己実現」という理念しか存在せず、
「他者の自己実現」という概念は
二の次になりかねない構造であることが
推察されるということ。

今一度、奉仕の概念に立ち返ってみるなら
ざっくりネットで検索するだけでも、
例えばWIKIによれば
『報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく
無私の労働を行うこと』
とあります。

この概念を照らす合わせるならば、
例えば医療や介護に関わる仕事のほとんどは
「奉仕」の概念から外れることとなります。
またこれは、そういう職種の人だけにとどまらず、
僕のような音楽を
人に与えることをしている人間にとっても、
これは問われる命題でもあるのです。

つまるところ、
「奉仕」とは単なる己の自己実現に
終始する振る舞いを言うのではなく、
むしろその対象となる
「他者の自己実現」を第一と捉えるべきであるなら、
ここで掲げられた自己実現は
自分自身と他者とのそれが
等価であらなければならないということであり、
その関係構造は
主従や、まして隷属的な構造上には
成り立たないとうこと。

しかし、対価、つまり報酬がなければ
この人間社会において
人は生きていけません。

だから現状、
真の奉仕を目指そうとするにしても、
「真の奉仕」が行使できない
そういう社会を生きている以上、
奉仕に対価を求めることを
悪と断ずることはできませんが、
それでもやはり
自分より他者の目的を実現させることを
念頭に置いた価値観を持たないと、
本当に「人類の心が痩せる」のだと感じます。

医療や介護などは
常に必要とされるものであり、
またともすればそれを施す者の立場も
持ち上げられたりもします。

しかし、
特に上記のような職種というのはなおさらに
「奉仕」の概念が
自己実現の手段になってはいけないのだと思います。

音楽というものは
それを志す多くの人が
「己の自己実現」の終始しし、
そればかりを貪った結果、
完全に「豊かな人」の不毛な世界と
なってしまいました。

音楽はほとんどが娯楽ですし、
音楽がなくても人は生きていけるので
こういう物事がなくなったとしても
それは人が選んだことですから
仕方がないことなのでしょう。

しかし、命に関してはそうはいきません。

『命を守ることが手段となった時、
人の営みは完全に不毛なものとなるのだと思うのです』

つまり、
命には値が付けられ
人はそれを買うもの
という世の中の到来を意味するのです。