その子は、宝か産廃か

幼少の頃、親と車で旅行をした時、
辺鄙な国道沿いの看板に
「大人のおもちゃ」と書かれているのを目にし、
純粋に「大人のおもちゃ」って
どういうものかと親に訊いた時、
微妙な空気を察したのを覚えています(笑)

それはさておき、
まあ今の時代というのは
子供から大人まで楽しめる娯楽というものが
たくさん氾濫していますが、
1970年代の前半くらいまで
一人前の大人の娯楽といえば
本当に、せいぜいメジャーなものといえば
酒とセックスしか無かったのです。

またこの時代というのは
いい大人が、子供の遊ぶおもちゃを
堂々と楽しむという
雰囲気もありませんでした。

故に「大人のおもちゃ」という
認知的定義が逆転するところの
隠微さに味わいが醸し出されていたのでしょう。

しかし今はその、
大人と子供の境目が曖昧になり、
大人は子供のおもちゃで大喜びし、
子供も早くからセックスを弄ぶ、
そういう時代になってしまったのです。

そしてセックスより楽しい事が
たくさん出てきて、
またセックス自体が商品となる時代となっては
それはやはり少子化にもなるだろうし、
男は草食化するだろうし、
また女もビッチ化していくのも
必然かなと感じます。

さらに酷い事を言うなら、
そうやって「実のないセックス」によって
産まれた子供は
ともすれば「産廃」とも言えるわけで、
これはこれで
虐待の素地を作るものへと繋がっていくのでしょう。

無意識、遠巻きにも
「産廃」を育てていると感じる親は
果たしてそこで
親心を発現させる事が出来るのか。
出来ればそれは人として良い結果と
なりうるのでしょうが、
そうならなかった親の
子は本当に不幸です。

ただ、はっきり言明しておくべきことは、
産廃として生まれた命と
宝として生まれた命、
この両者にその重みの差異は全くないということです。