自分の愛へ還る

愛というものはまず、
根本的に所有するものではない
ということを基底にして、
あくまで自分の中でそれを手放せこその
愛だと思うのです。

愛という発露がたとえ
自分のそば、手元にあったところで、
それは相対的な「対象」に過ぎず、
その中でそれは永遠に
愛の分離という体験しかすることができないからです。

人の心というものは、
自分の外側にしかないと思うから
それを欲するのでしょうが、
それを外側に顕現したところで
所詮、それは外側のものに過ぎないのです。

つまりは、内側の愛の不在が
人の無意識のうちに
愛の発現を外側に求めてしまうものなのでしょう。

しかし何度も言うように、
内側に愛を認識できないうちは
たとえそれが外側にあったところで、
それを自身の内奥の愛の顕われたるそれであると
認識できよう筈がないのです。

これはともすれば
愛の概念に限ったことではないのでしょうが、
物事はそもそも、
外側から満ちることはないのです。
内側に満ちた結果として
外的世界に散在するあらゆるものが
満ちた内的世界によって
秩序だてされるものなのです。

内的世界の特質が、
外的世界に存在するものの中から
その内的世界に適った情報を
無意識に選びとっている、
そう言い換えても良いかもしれません。

故に愛はまず、内側に発露させる必要があるし、
その発露したそれこそが
愛という現象の本質であるので、
そもそも外側の自分のそばに
それを置き止めておこうとしなくても、
自ずとそれは、
自身の愛が、
自身のある一定の統一性をもった
その自身の愛が
自身の内奥で息づき続けている限り、
自身の内側の絶対軸の部分で
愛すべき何か、誰かは
いつだってそこに存在しているのです。

逆に言えば、
外側に無いと思ってしまえば
内的な愛と外的な愛の繋がりは
断たれてしまうのです。

大抵の人はそこで、外側に追おうとしてしまうから、
悲劇を体験してしまうしまた、
業も作ってしまうのでしょう。

愛とは
外側の条件や環境ではないし、
それを愛するというのであれば
それは愛ではない。
心の隙間を手なぐさみで
埋めているだけに過ぎないのでしょう。

愛する想い。

とにかくそれしかない。
それしかないし、それが無いと
外側へも始まっていかない。

自分は愛する。
ただそれだけでいいし、
それ以外のものは
「自分は愛する」という想いの
さざなみからできた影に過ぎない。

分離された愛を目の当たりにして
心が引き裂かれそうになった時というのは、
この「自分は愛する」というところに
帰っていこうとすれば
おそらく愛の焦燥は和らぐだろうし、
それはまやかしではなく、
実際にその時、
心は癒えている、あるいは
心が本質に立ち帰っていこうと
している時なのだと思います。