音楽は杖

自分の音楽に市場価値が無いことを悟った時、
いかような拠り所を設定して
音楽に望めばいいのかと
考えたりもするのです。

大きなステージ、
膨大数の観客を前に
スポットライトを当てられて音楽をする、
そういう音楽人生が叶わないのなら、
それはそれで
自分の身に合っていなかった
ということなのだろうと思うのですが、
では果たして音楽人生の成功例というものは
そういう上述のシチュエーションや体験だけが
全てかと言えばそうではありません。

現実、音楽をやる現場の内側から見れば
明らかにそういうわけでは無いことは
思い知るに至るものがあります。

たくさんのファンを増やして
膨大な富を得る(もうそういう時代では無いのですが)
ということは、
見方を変えれば
それだけ多数の人から
富を奪っているとも言えるのわけで、
そう考えるとこれは
非常に大きな大罪を犯しているのではないかと
思ったりもするのです。

今の僕はこう考えています。

多くのファンをつけ、
多くの利益を得ようとするという
音楽ビジネスでは当たり前の事柄も、
この本質は
音楽を餌に、多くの人を隷属化して
縛り付けている行為なのではないかと。

何が悪いのかと問われれば
僕自身もうまく答えられないのですが、
それでも心を縛るのは音楽の本質ではないと
僕自身の本能がそれを知っているように思えます。
音楽とは、
僕にとっての音楽とは、
もっと魂を解放させるエネルギーそのもので、
心を自由にさせるものこそが
本来の音楽の姿だったのではないかと思うのです。

音楽とは
心の杖のようなものだと僕は考えます。

しんどい時の支えにもなるし、
行くべき道を先に知らしめる啓示ともなる杖。

本来元気な人には音楽は必要がないのです。

自分の心が満たされているのであれば、
杖に寄りかかる必要もありません。

音楽は、人を音楽から解放するために
存在しているのではないかと考えたりもするのです。

傷ついて杖をついている人が
やがて元気になり、
杖を必要としなくなる助けとするための音楽、
それが音楽の本質なのではないかと。

杖が要らない人というのは
元気な人と、それとは真逆の、
杖を置いて寝ていた方がいい人の
二通りなのでしょう。

最近僕が気掛かりなのは、
杖を置いて、静かに寝ていた方がいい人が
巷に溢れかえっていることです。

心が完全に折れて、苦しいのをごまかすように、
「鑑賞する」でもなく
また見を委ねるでもなく、
劣悪な質の音楽に心を同調させて
苦しさから逃避しようとしている人が
すごく多いことが気になるのです。

音楽を「麻薬」のように扱う人が
多い現状が非常に気掛かりです。

そして僕はといえば、
こういう状況だからこそ極力
オーガニックな音楽を作っていきたいなとも
考えるのです。

本当はそういう、杖のような音楽こそが必要なのに、
みんな、どれが杖かもわからず
「音」と「音楽」の違いさえも
区別がつかなくなってしまっている先は、
本当に滅びの道だと感じるのです。