商店街が賑わっていた時代の方がみんな豊かだった

むかしむかし、
もう30年以上も前の話。

日本がバブル景気の頂点に
差し掛かる直前くらいのこと。

その当時はまだ、
街にはそれぞれの「商店街」があって、
野菜は八百屋、肉は肉屋、米は米屋で
買ったものです。
みんなそれぞれが個人で商売をし、
そうやって地域のコミュニティで
お金が回って、普通の暮らしができていました。

ところがある時期を境に、
地域外、あるいは国外から
大型のショッピングセンターや
大企業のコンビニチェーンが
しかもそれらは莫大な資本力があり、
個人商店では仕入れられない量の
品物を仕入れることで、
小売価格を安くすることを武器に
やってきたのです。

個人のしみったれた店とは違い、
それらは洗練され、
また欲しいものが、
そこ一箇所で手に入れられるという便利さもあって、
消費者はそうした大型の商業施設へと
足を運ぶようになりました。

富はこの大型商業施設がどんどん吸い上げて、
個人の商店は商売あがったりとなって、
潰れていきました。

潰れなくとも、さすがに儲からない
個人の商店の後を継ぐ人もなく、
結局、店主がなんらかの理由で
引退することは、それすなわち
店の看板をたたむことと同じとなったのです。

こうして日本中の商店街は寂れ、
街は萎縮し、
入り込んでくる大きな組織という
長いものに巻かれないと
生きていけない社会が出来上がりました。

これが資本主義の怖さでしょう。

勝者こそが正義の
弱肉強食の世界。

ちょっとでも良いものを安く、
そして楽に手に入れたい。
もっともっと手に入れたい。
そんな消費動向の隙に入り込んで
目先の「物欲」は
簡単に満たせるようになりましたが、
長い目で見るとそれは
自身らの生活の基盤を
徐々に切り崩していたことに
誰も気づかなかったのです。

そして今でも多くの人が
そのことに気づいていません。

同じ資本主義経済のルールの中で
経済活動をしながらも、
餅は餅屋で消費する昔の構造の法が
今より明らかに、
多くの人が満遍なく潤っていました。

結局、資本主義も
高度に進み過ぎると、
経済体制という範疇を超えて
ナショナリズムに通じるようになり、
知らず知らずのうちに
全体主義的構造の世界を生きることを
強いるようになるのです。

資本主義はまだまだ深化していくでしょう。

餅を売りたくても
どこかの会社に就職しなくては
売れなくなる時代がやがてきます。

雨後の筍のように乱立するラーメン屋だって、
やがては吸収合併を繰り返し、
だいたい3強くらいに収斂されていくことでしょう。

様々な業種が
この資本主義トーナメントを勝ち上がって、
結局行き着くところは
社会主義、共産主義の一歩手前、
あるいは、ほとんど国営
または財閥の復活という
道をたどるのだと思います。

こうやって資本主義は
自然に自らの柔軟性を失って、
その構造はやがて破綻するのだともいます。

そしてこの世界、つまり
資本主義社会というのは、
富を奪い合い、より多くを得ることで
人生を支配する亡者の集まる地獄なのだとおもいます。

かつての共産主義、社会主義が
理想の社会体制ではなかったように、
資本主義もまた理想の社会体制ではありません。

目の前の
あらゆる「欲」を満たすことのできる
魔法の「お金」に釣られて
自分自身を隷属化させることによって
成り立っている世界なのです。

楽園や、まして罷り間違っても
天国なんかではないのです。