神聖さを手放した世界

かつて、この世で神聖視されたものは
なぜだかすべからく
汚されて、また、神聖である物自体を
求めなくなってしまったのだろうと思います。

もちろん、ここで言う神聖というのは、
オカルト的なものだったりとか
宗教に近接した意味での神聖というのではなく、
なんというか、そう、むしろ
人としての慎みや、美徳という概念に近いものと
捉えたほうが正確かもしれません。
少なくとも一般的な「神」の概念よりは
よほど本質に近接しているもののこと。
そして今、人が失いつつあるのはこれであるところの
神聖さというものだと僕は考えています。

こうしたものこそが本来なら
賞賛に値する対象となるのでしょうが、
どうしたことか
この世界では逆に
蔑むべき対象として扱われます。

嘘つきが正直者を嗤うように、
あるいは
悪人が善人を嗤うように、
科学者は神聖さを嗤い、
冒涜してきたのでしょう。

進歩や開発は確かに大切ですが、
畏れを忘れたそれは
自然界においては
たがの外れた狂気、あるいは凶器に他なりません。

かつては詩も音楽も、文学も
神聖なものでした。
いや、今でも神聖なのでしょう。

間違っても
堕落を肥させるためにあったわけではない。

けれど、この世の人は
堕落の味を美味しく感じて
そればかりねだるから、
どれもが皆、
神聖さを失い枯れてしまいました。

神聖さというものは
なくなったわけではないと思うのです。
まして、淘汰されるはずもないでしょう。

神聖さは人間のはるか上に
変わらず存在しています。

神聖さは昇っていったのではないのだと思うのです。

人間の方が堕ちていったので
人間の目からは
とても見えないくらいに高いところに
あるように見えるのでしょう。

上に行くものは上へ、
下へ行くものは下へ。

存在が消えたと感じた時、
それはおそらく自分とは
高さの違う場所へ移っていったのかもしれません。