愛することで人は己を知る

人を愛するという事は、
それは愛すれば愛するほどに
自分自身へ還っていくプロセスなのだと感じます。

何故なら、
どれだけ愛する相手を外側に求めても
それは単にあくまで
外的な条件に過ぎず、
愛を貫くのも、あるいはまた
その愛を諦めて捨てるのも、
結局は己自身の想うところに委ねられているからです。

愛する対象となる人がいるから
その想いが愛足り得る訳ではなく、
ただただ、自分自身本人が
どれだけ愛を発露させているか
その一点に尽きると思うのです。

愛する相手というのは、
その相手のさらに向こう側に
自分自身の内側、
即ち真実の自分が在るのです。

もちろん、ちょっと好きになったくらいでは
相手の向こうにいる自分の存在に
気づく事は無いかもしれません。

しかし、どこまでも深く
忍耐強く愛し続ける事で
それ、つまり
自分が見えてくる。

それは自分でありながらも、
もちろん同時に
愛する相手でもあります。

結局のところ、
愛する衝動の究極の到達点かつ、
本来の目的というものは、
自分と、逆の性である
もう片方の自分とを
統合させる事にあるのだと思うのです。

統合が愛のゴールであるのだから、
相手を常に外側に求めるうちは
いつまでもそこには
分離の体験しか生まれないのでしょう。

その分離の体験は非常に苦しいのです。

自分という存在が
本質から遠ざかるという事は、
これほどまでに
引き裂かれる想いを体験しているのだとも言えます。

けれど、それが当たり前になってしまっているから
分からないだけで、
それはつまり、
この世に生を受けたという事は、
そういう分離の苦痛も
それしか無い世界においては
それもまた、
肯定的なものであるのだと
達観する事なのかもしれません。

その分離の苦痛そのものが、
もしかすると
「愛としての自分」という存在を
気づかせしめ、
故にそこへ還ることで
自身を統合したいという
衝動となるのかもしれません。