ふたりでひとつ

自分は果たして、
本当の意味で人を愛せただろうかと
考えることがあります。

もちろんさすがに僕もこの歳なので、
エゴイスティックな意味での
恋はたくさんしたし、
愛しもしてきました。

ここでいうエゴイスティックとは
ドグマティックという性質も
含んでいるのかもしれませんが、
要するに独りよがりといえば平たいのかもしれません。

愛や恋におけるエゴとは
このドグマティックという
同種の性質を軸として、
対照的な真逆のベクトルの振る舞いをします。

一つは自分の「好き」という気持ちを
一方的に相手にぶつけるような振る舞い。

好きな人と、あそこに行きたい
これをしたい、
一緒に何を食べたい。
そしてそう思うから、そうする。

一見、ごく普通の恋心の発露なのでしょうが、
やはり成熟しているかといえば
それには程遠いのでしょう。

逆のベクトルとして、
相手が好き勝手に振る舞うけれど
「好きだから」という理由で
その相手の勝手な振る舞いを容認して
自分の不満は抑制していくという
要は滅私感を伴う恋。

これも突き詰めれば前者の
わかりやすい形としての
エゴイスティックと性質の根本は変わりません。

結局のところその両者に共通して言えるのは、
「自分がどうであるか」という一点のみで
完結してしまっていることです。

自分の身勝手に振る舞うか
相手の身勝手に甘んじるか、
そこにはその両者の
「自分の立場」だけがあり、
人を想っているようで実のところ
そんな「想う相手が不在のまま」
完結してしまっているのです。

月並みではあるのですが、
やはり愛だの恋だのというものが
成熟していくためには、
互いの内的世界に
「ふたり」が存在しなくてはならない。

さらに深く突き詰めるならそれは
「ふたりでひとつ」という感覚。

愛という帰結点であり、本質であるところの
本来の精神の姿を二つに割った
それぞれの片割れ同士であることが
本来、自然な姿であると思うのです。

ただ、なかなかそう簡単にいかないのが
人に人生でもあるのでしょう。

本来の愛におけるエゴや、
思考パターン、過去の成功体験など、
たくさんの無駄なものを
その精神に背負ってしまうから
本来の純粋な愛の挙動ができなくなるがゆえに
人は何度も過つし、
そういう意味において果たして
自分も本当に人を愛せたことがあるのだろうか
と考えたりもするのです。

つまり、
「私の望みが、あの人の望みでもある」
この心境を
押し付けでもなく、滅私でもなく、
純粋に「望み」が同調した状態の「愛」
というものを果たして僕は
今まで体験してきたかどうかということ。

当然、そんなのはあり得ないと断ずることは
思考停止以外の何物でもなく、
それは常に模索されなければならないことであるし、
それを受け入れるための自身の心を
それなりに磨くことも必要となるのだと思います。

本来はここを目指すことが理想なのだと思うのです。

愛するふたりがひとつになるということは、
望みがひとつになるということで、
おそらくこれは人をして
もっとも「神に近い」体験となりうると思うのです。