それでも愛は命に先立つ

そもそも生命というものが
この世に生まれ出るための
絶対的な条件として、
まずそこに「愛がある」ことは
必要不可欠です。

望まれない命を産むという
人の意思の自由も含めて
愛の多様性の顕れとしての愛であり、
そういう状況下そのものもまた
愛なのです。

いずれにしろ生命というものは、
「愛」がないと発動しないのです。
逆に言えば、
生命現象の本質、
あるいはその本質的な原動力というものは
愛そのものであり、
それの発露するところに
生命現象、ないし
『生命体験』というものが
あるのだろうと思うのです。

生命という現象を
愛という概念で弁証するということは、
ともすれば非論理的で
人の想像しうるところの
ロマンティシズムに通じるような
そういう捉え方をされかねませんが、
それでも、
結局この世に生を受けた生命というものが、
少なくとも、人間という種の
生命というものに限ってみても、
それはどんな形のものであれ
愛が発露、発現しないと
新たな生命の受け皿たる肉体を
作り出すことはできないのです。

ロマン云々以前に、着目すべきはここでしょう。

誰しもが必ず、
それが持続性を持つものなのか
刹那的なものなのかはわかりませんが、
少なくとも「その時、その瞬間」には
間違いなくそこに「愛」が存在したが故に
結実した存在であるのです。

新しい命をこの世界に迎えるにあたって、
平たく言えば、兎にも角にも
『セックスをしないと始まらない』のが
「生命を産む」ということであるのだから、
程度の多少、規模の大小こそ違えど、
その時に何かしらの愛の発露がないと
それ、つまり新しい生命は
この世に発現しないのです。

これは別に難しい話ではありません。

人として、いや生命として
非常にシンプルな
「摂理」なのです。