資本主義は所詮、共産主義のミニチュアにすぎない

昨日は、資本主義も
追求していくと
共産主義と同じ道をたどるという
お話をしました。

資本主義の中では
お金を儲けた人や組織が勝者です。
勝者は敗者、あるいはライバルでさえ
買収することができます。

こうして不必要なほどに膨れ上がった
巨大な組織というものは、
その分その会社、グループ内に抱えられる
人も大勢いるということになるわけで、
それこそ同じ系列会社を含めれば
数万人という社員を持つ
会社組織の世界というのは、
ともすれば
共産主義のミニチュアのようなものなのです。

実はこのことが言いたかったが故の
昨日の記事が前振りだったわけです。

結局、経営者と社員という
関係構造の中で、
その規模が大きくなるほどに
それは共産主義と同じ性質を帯びてくるものなのです。

例えば
同じ仕事をする社員全員が同じ給料にならないのは、
そこに仕事の質に対する対価という
概念が付加されるからで、
これをボーナスだとか手当だとか
インセンティブだとか言うのですが、
この概念が資本主義の中に潜む
共産主義的性質をステルス化していると
言ってもいいのかもしれません。

けれど往往にして
いち組織の中では、頑張った労力に
報酬は比例しない。

仕事の重要性や専門性、
そしてその質によって
その報酬の対価が変わることは
何も悪いことではなく、
それは当然のことでもあるのですが、
どうもそういう「評価の相対性」で煙に巻いて
利権という悪習が育っていくように思えるのです。

それはどういう事かというと、
正当な対価を捻じ曲げることなく
健全な利益分配がなされているか、
あるいは利益ありき、雇用ありき前提で
必要の無い仕事を創出したりはしていないか、
そういう点においての利権。

日本において、こういう構造は
普遍的なまでにまかり通っていて、
それが社会の姿であると
いつの間にか思い込んしまっていますが、
こういう構造があるから
健全な利益分配がなされず、
それを是正する抑止力も持たないまま
社会が運営されるから
格差が生まれるのです。

人間というのは
結局のところ卑しい生き物ですから
貧富の格差がそのままメンタリティの格差、
民度の格差というところへ
帰結してしまうのです。

つまり資本主義も、
その目的を追求していくと結局は
淘汰する少数の勝ち組が
支配権を持つ事となり、
それによって多様性を失うことが
共産主義の本質と近接した性質を
帯び始めるのです。

格差社会と言われて久しいですが、
これは共産主義がたどった過程を
やんわりなぞっているに過ぎないのです。

つまり、バランス感覚を失した資本主義は
共産主義と同質の破綻へ向かうのだろうということ。

所詮は人間、
相対性の価値観の中で構築された
「不足を満たす」という
世界観を生きざるを得ないうちは、
どれほど優れた経済システムであろうと
持て余して、やがては壊してしまうものなのでしょう。