白煙あがる

ローマ法王が決まったそうですが・・・。
でも、諸問題でスムーズには決まらなかったようで。
割と真面目な話、
キリスト教のリーダー不在なら
もうキリスト教は解体しても良いのではないかと
思うのです。
もしくは、
次のローマ法王には
オジー・オズボーンを推しますね(笑)
そして
『Black Sabbath(黒い安息日)』を
アンセムにするね(笑)
おおぉ!胸が熱くなる!!
冗談はさておき、もちろんそれは
キリスト教だけの話ではありません。
この世の宗教、ありとあらゆる宗教は
解体し、この世から無くすべきと考えます。
ただ、ここで間違えて欲しくないのは
解体すべきは宗教であり、
信仰ではないという事。
信仰を履き違えて
組織の旗を揚げたのが
宗教である。
これば僕から見える宗教です。
人に信仰は必要です。
宗教が無いのに何を信仰するのか。
いや、宗教という概念を取り払って
はじめて見えてくる
真に信仰すべきものがあるのです。
それが「個」の精神。
そもそも、宗教の領域にあると
考えられている
「神」の概念さえ、
本質は個人の内的世界の中で
形成されたイメージにしか過ぎません。
「個」の中で形作られた
「神」として、
「神」であるかのように振る舞うべし。
これが良心です。
単刀直入に言うなれば、
人は「神」など信仰せずとも
その自らの良心を信仰するなら、
それがもっともシンプルで
理に適った精神活動と言えると思うのです。
「個」としてもっとも
シンプルで理に適い、安定した状態を
奪うのが宗教であると考えます。
宗教は、人の精神の
多様性、創造性、絶対性という
三大原則を
すべからく奪い、
あたかも「個」の内的世界に存在している
「神」を外的世界に具現化したように見せかけ、
それに目を惹き付ける事で
「個」を隷属化させます。
偽りの神に鎖で繋がれた精神は、
幾千年も、いや
鎖に繋がれている限り永遠に
その「負の永劫回帰」たる人生を
何度も繰り返さざるを得なくなるのです。
人の精神は、そのような
狭い世界観を生きてはいません。
その、代わり映えもせず
無限に同じものたる
生涯の枠を超えたところにこそ
精神の本質があり、
それが本来の
精神の在り方だと思うのです。
精神は
あらゆる時間、空間、個、ヴィジョンなどを
自由に行き来出来るようになって
ようやく摂理に適うと考えます。
精神は、外側の神の奴隷として
発現したわけではありません。
完全なる調和という
完全なる自由の発露こそが
精神なのです。
そのごく自然な精神活動の発露を
歪めてしまう
宗教などはあってはならない。
それでも「神」が必要というのであれば
己を「神」と見立て
それを信仰し、そのように振る舞え。
人が「外側の神」の鎖を断ち切るためなら、
ナザレのイエスに唾を吐きかけ、
ムハンマドに糞尿をぶちまけ、
釈迦の心臓に剣を突き立てよう。
それは天に唾する行為などではない。
むしろ天に通じる階段を開く行為でしょう。
いつまでも先導者を祀り立てていては
人はその「先導してくれる」という
依存の関係から抜け出そうとしません。
その依存を断った時、
そこにある良心こそが真の神であり、
信仰の対象だと思うのです。
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