その闇の首を打ち取れ!

人生、生きていれば
まさにエアポケットのように、
あらゆるポジティブな思考が寸断された、
いわゆる
「人生の望みを完全に失った」状態というものに
陥るものです。
繊細な感性を持っている人間であれば、
一度ならず、ともすれば
何度もそうしたエアポケットに
堕ちる事があるものです。
それらは、
完膚なきまでの絶望と
圧倒的な無と
逃れる事の出来ない全否定をもってして、
自身という存在を
この世から消してかかろうとしてきます。
人生のエアポケットに堕ちると、
心に何もそよがないし
何も聴こえなくなります。
何も見えなくなります。
人生という自身の内的世界から
一切の揺らぎが消えます。
故に、誰もが望んで
そのようなシチュエーションなどに
出会いたい筈はありません。
ならば、
そうした人生のエアポケットは
忌むべきものであるかと言えば、
実は意外とその逆で
ある意味それは
心の根本部分の浄化の
始まりだったりするものなのです。
焼き畑農法という農業の農法があります。
簡単に言うなら
耕していた畑を焼いて
畑のコンディションをリセットする方法です。
土壌を焼くので
雑草や土中の病原菌など、
農作物に悪影響を及ぼすものを
排除する役目もあります。
畑を焼いたら、その畑は
しばらくお休みします。
人生のエアポケットというものは、
まさしく
心という畑を焼き付くし、
新しい土壌に生まれ変わるための
休眠期感のようなものなのでしょう。
自己を頑に否定し
死を意識するほどに、
意識すれば意識するほどに、
心は深い部分まで浄化され
熟成され、
より豊かな次の活動期を迎える事が出来るのです。
その闇は果てしないでしょう。
より暗い場所へ潜っても
さらに暗い場所がある。
どこまでも、どこまでも
暗い場所へと進む自分に
飽き飽きするまで、
とにかく進む。
今より暗い場所へ。
もういやだと思っても
まだそれだけでは赦されない。
もっと暗い場所へと向かわなければいけない。
そして、最終的に
自身の心が許容出来る「暗さ」の
限界に達すると、
ようやくその「暗さ」からの問いかけが
聞こえてくるようになります。
『この世から消えるか、この闇から逃げ帰るか、
好きな方を選べ』
と。
そこで悟るのです。
闇は自身を試していた事を。
自分が消える事、消す事が
闇の目論見であり、誘惑なのだと。
この闇の声が聞こえるほどに
深い暗さの底まで潜れるほどに
鍛えられ、高められた精神なら、
闇の目論みに気づき、暴き、
「否」の一言をもってして
その圧倒的な影に剣を突き刺して
闇を倒し、
逆に闇を服従させる事が出来る筈なのです。
あとは
闇の首を取って
わずかに差す光を頼りに
真っすぐと帰ってくるだけなのですが、
それでも闇は抵抗してくるでしょう。
『おまえの持っている首は偽物の闇の首だ』
と。
とにかく、疑わせ
信じる道を塞ごうとしてきます。
「その首は偽物」と
信念の脇腹を突いてくる闇に対しては
『ならば本物はおまえか』
と、一思いにその別の闇の首を打ち取れば良い。
完全に打ち取られた闇は
服従するより他は無くなります。
あらゆる「疑念」を切り捨てると
最後には「信念」しか残りません。
これを繰り返していくと
そのうち気づくでしょう。
何もそよがず響かなかった心が、
闇にあがなう事によって
その生命力を取り戻していた事に。
それは何故か。
迫ってくる闇の襲来を
払い退け続けていくと、
その闇の居た空間に
光が入ってくるからです。
これが心の浄化です。
「死」想うほどの強敵を、
それが強ければ強いほどに
打ち負かした後の
浄化作用は強く働きます。
故に、一度課せられたなら
可能な限り暗い深みまで潜るべきです。
闇がそそのかす声が聞こえるまでに深く。
生半可な薄暗い場所に横たわって
嘆くくらいなら、
もっと暗い場所へ行って
本物の闇を見てこい。
そして、その首を打ち取ってこい。
その首は光にかざすと
宝石の様に美しく輝きを見せてくれるでしょう。
人生のエアポケットという
影の庭に立ち入ったのなら、
それはきっと
心の闇を倒すという必要性が
あるからなのだと思うのです。
太古、
キリストや仏陀というのはきっと
もっとも暗い場所に居る
闇の首を打ち取って
光の元へと帰ってきた人なのでしょう。
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