傷の意味

傷を負った人間は
ある意味幸せかもしれないと思ったりします。
何故なら、傷を負えるだけの
資格のある者だから。
その傷を負えるだけの
力が備わっているから。
何気なく言ったその言葉、
何気なく振る舞ったその行為、
そうしたものは
与えた側は時が経てば
自分がそのような事をした記憶すら
捨ててしまいますが、
受けた側は
その与えられたものを
ともすれば一生
背負っていかなければいけなくなるのです。
それが傷。
その傷は自身の心の
足かせとなって
人生のいろいろな場面で
つまづく元となります。
少なくとも
もう、順風満帆な人生は送る事は
出来ないと思います。
一度傷の痛みを知ってしまったのなら。
しかしここで知恵が必要です。
痛みを知る事は、
己の心の体験として
果たして本当に悪なのでしょうか。
誰だって辛い思いなどしたくはありません。
かと言って、
辛いからと体験しないままでは
心は成長出来ません。
心の成長を促す事象は
いろいろとありますが、
それらはすべて
体験する事によって認知し、
規定される物事であり、
そうして構成された森羅万象を
自身の内的世界に取り込むことこそが、
心の成長の本質であり、
また通過点でしょう。
あらゆるものを体験し尽くしたら
今度は、
それらについて自身が感じた事は
あくまでも自身が創り出した
内的心象という
幻想に過ぎず、
それらはあるがまま、善悪、白黒の無い、
ただの事象である事に気づき、
自らが構築したその内的世界を解体し、
捨て去る事が求められます。
それはつまり、
物事の二元性を
絶対性のある一元論に統合する作業でもあります。
その統合の過程で
傷というものが大きな壁となって
立ちはだかります。
その痛かった強烈な記憶という
二元的認識すらも統合し、
善悪の無いただの出来事として
捉えなければならないからです。
ここで心の強さが求められるし、
それだけ難度の高い次元に
自身の心が到達している事の証なのでしょう。
傷を一元論に統合するという事は
幾千もの傷を
手放す事、
それ即ち
赦す事なのです。
それらはもう過ぎていった
体験のひとつに過ぎず、
良いも悪いも無かった、
いやむしろ
その傷を負ったが故に
それを手放すという高尚な体験が出来たのだと
背負った感情を昇華させ、
その傷の由来を
自身のパーソナリティに統合する事に
意義があると言ってもいいかもしれません。
簡単にまとめるならそれは、
赦すという行為を体験するには
傷を負わなければ成立しない事であり、
そのリスクの越えてこそはじめて
この高尚かつ崇高、
至上にして至高たる「赦しの体験」が出来るのです。
そして赦しの体験から
愛するという次元の地平が見えてくる筈です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ランキングに参加しています。
お暇でしたら下のバナーを応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ
にほんブログ村