認める事という絶対性

本当の事を言うと
「信じる」、「信じない」という
二極性の概念は
根本の部分で無意味な概念なのです。
何故ならそれを
信じようが信じまいが
どちらにしろ
それがそこに存在する以上、
確かに存在するものであるから。
ただそれについて
肯定的に見ているか
否定的に見ているかという、
視点の問題であって
対象となるものは
ただあるがままに
そこに存在しているもの。
しかしながら
「信じない」という視点から見ると
どうしてもその対象を
心の認知から排除しようと
考えてしまうもの。
「それを排除する」と意識しているうちは
常に「それ」が排除すべきものとして
心に存在しているわけで、
結局「それ」から
離れる事は出来ないのです。
認めたくない、信じたくない現実を
自分の都合の良い形に
コントロールしようとすると、
そこにはどうしても執着が生まれます。
認め難い現実を排除しようとすれば
するほどに
それは執着となって
強固にまとわりつき、
認め難い現実が
いつまでも、どこまでも
ついてくるようになります。
そうすると心が苦しくなる。
そもそも、
「信じる」「信じない」という
二元論さえ、
実は「信じない」事という
前提の上に成り立っているものであり、
「信じて」いれば
そのような概念すら実体を持つ事は無いのです。
故にこの二元論もまた
ある意味虚像と言えなくもないのでしょう。
「虚」か「実」かを論ずるのは、
究極的な帰結点という
視点から見れば
意味の無いもので、
そこにある対象のものが
確かにそこに存在していることを
ただそれ、あるがままのものとして
是認出来るかどうか、
その一点のみが問われるものなのです。
楽しい事や嬉しい事は
だれでも喜んで、
その存在を認めるでしょう。
しかし、
辛い事や悲しい事をも
進んで是認する事が出来るでしょうか。
辛い事や悲しい事も、
それがある事が認められないから
「信じる」「信じない」という
ひとつ下の次元に落とし込んで、
排除すべきものという
選り分けの条件で
解釈をして「苦」から逃れようとしますが
実はそうではないのです。
辛い事、悲しい事から抜け出す早道は、
それを実際にあるものとして
認める事なのです。
認めてしまえば
それを排除すべきものとして
いつまでも思い煩う必要も無くなる。
そうすれば、そのうち
時が経つにつれ
それは遠ざかっていくもの。
「苦」はこうして手放すのが
一番理に適っていたりするものなのです。
結局のところ
それが自身の内的世界に
存在しはじめた以上、
信じようが信じまいが
それはそこにあり続けるので、
最終的にそれを否定する事を降伏し、
ただ純粋に「認めるべきもの」であることを
是認せざるを得なくなっていくものなのです。
認めないうちは
いつまで経っても
それは内的領域に居座るし、
それがやがて外的な事象を
惹起する要因ともなりうる。
それが
世の理。心の理。
楽しかろうが悲しかろうが、
好きだろうが嫌いだろうが、
信じようが信じまいが、
ただただ
自身の認めているものが
内にも外にもあるし、
自身の究極的な是認の形こそ
それ即ち
個性そのものなのです。
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