沈没船の倫理学

今、大洋の只中で
自分の乗っている客船が
まさに沈みゆこうとしています。
船に乗っている人すべてを
受け入れる許容量分の
救命ボートは用意されていますが、
客員はそうしたボートがある事を知りません。
また、その救命ボートに乗って
沈みゆく客船から抜け出せたとしても
ここは海しか無い場所。
そこから救出して保護してくれる人が
やって来る確証もありません。
そうしているうちに
船内に海水が
怒濤のごとく流れ込んで
船体がどんどん傾いていきます。
非常口のルートや
救命ボートの場所へ
導く人もいますが、
いかんせん彼らも混乱しています。
さて、このシチュエーションの中で
僕を含め、
この記事を読んでいる方々は
何をする人となりたいでしょうか。
そして実際は
何をする人となるでしょうか。
沈むゆく船の中に同乗する
自分を含めた他者との関係の中で、
絶望に瀕して
船から脱出することさえも
諦めてしまったような人を
諭して救命ボートまで
連れて行く人になれるかもしれない。
また逆に、
我先にと他の人を押しのけて
救命ボートを独占しようとする人もいるでしょう。
そしてそのような人に、
それは不徳であると
叱る人も現れるかもしれません。
そうした二元論でこの状況が
片付けば話は簡単なのですが、
この船は非常に巨大で
あらゆる人が乗船しています。
末期の病気を患って
治療の手を尽くしてもなお
今も今後も
症状の改善が期待出来ず、
こうしている今も
病の苦しみに悶えている、
そのような乗客は
救命ボートに乗せるべきでしょうか。
もしかすると鎮静剤を与えて
沈もうとしている船に
残していくことが最善なのかも知れません。
でも、それを
病気を患っている人の家族が
許さなかったらどうでしょう。
命は重いです。
重いが故に
生き続けるべき命と
消えてしまう方が自然な命との
判別は難しいし、
それを単純な二元論で判断すれば
必ずそこに
様々な葛藤が生じます。
沈みゆく船の運命に諦念し、
自らの運命もその船とともにあると
思い込んでしまっている人。
普段は理性的で良心的であるにも拘らず、
船が沈むという状況を前に
パニックになってしまい、
救命ボートが沈むかもしれないからと、
ボートに同乗した人を
深淵な海洋に突き落としてしまう人。
救命ボートで脱出する以外に
生き残る術を思いついた人。
他にもいろいろ、
沈みゆく船に乗っている人の数だけの
命の事情があり、
その帰結としての
命の在り方があります。
しかし、
その命に対して
他の別の命は
干渉することは出来ますが、
最終的に
その人の命の在り方を
方向付けするのは
その人の命から発する
意志こそがすべてなのです。
救命の名のもとに差し伸べられた手に
応える気があるのか、ないのか。
それを決められるのは
ひとりひとり、個人の意志なのです。
僕がこの沈みゆく船の乗員であるなら、
健全な命である以上、
僕は助かる道を選ぶでしょう。
しかし、救命ボートに乗る
最後の人でありたいし、
一番最後にボートに乗ろうとする
慎みを持っていたいと考えます。
沈む船の乗員、すべての人が
自分の命の行き先を定め、
救命ボートに乗りたい人すべてが乗り、
そうでなくとも
他に助かる方法を見つけた人を見届け、
船とともに海に沈んでいく事を選んだ人に
祈りを捧げ、
最後の最後にボートに乗って
沈む船を離れたいです。
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