信じる事、疑う事

以前、
この世は「虚」と「実」で
成り立っているという
話をした事がありますが、
信じなければ「実」は生まれないのです。
想うだけでは足らないのです。
この世の根源かつ普遍的な
唯一無二の真理の原初の発現でさえ、
信じなければ
発現、発振する事はないのです。
極論を言うなれば
「悪」でさえ信じる事の発現であり、
真理という「場」を拡大させていく際の
方向付けやバランスを保つために
必要なエネルギーとなります。
この世の摂理を阻害するものは
そうした混沌ではなく、
また逆に
「信じない」という事を
「信じている」事でもなく、
「疑う」事なのです。
この世のあらゆる事象は
「信じる」という視点から見ると、
その「信じた」度合いに比例するように
実像を色濃くしていきます。
同じ事象でも
「疑う」と途端に疑わしくなり、
その実像も虚像に見えてきます。
疑って、
虚像であると「信じる」のなら
それもまた良いでしょう。
固定された定点から「疑う」のであれば、
それは「信じている」のと
同じ事なのであり、
虚像を実像として
捉えているに過ぎないのですから。
「疑う」事の危うさは
それを「疑い」
実像を探し求めては
また別の何かを「疑う」という
疑念の悪循環にはまってしまう事です。
常に「信じる」ものが無いから
内的世界に実像を固定する事が出来ないのです。
あらゆるものが
疑わしい虚像であると
「信じない」ことすらも
「信じられなくなる」と、
それは外的世界に
何かを生む事すらままならなくなるのです。
分かりやすく言うなれば、
こう物思う。
いや、そうでは無いかも知れない。
だからこう思い、
それもまた信じられないから
これなら・・・、
こういう思考パターンで過ごすと
人生に於いて
何も生まない結果となってしまうのです。
ただ、
信じる事の正しさを確認するために
疑う事は必要です。
「疑う」という思考は
人生をより良い方向へ向けるための
余白部分、「遊び」のようなもので、
いつまでも
そこにいるような場所ではないのです。
自身の向かっている方向を確認したら、
再び「信じる」という場所に
没入していかなくてはならないのです。
可能な限り純粋に、
可能な限り疑念から遠ざかるのです。
迷い、自身を信じられない心では
人生に何一つ
もたらすものはないのです。
信じる事によってのみ、
それを写し鏡にした
そっくりそのままの事が
実像となるのです。
それ故に
「信じる」ことは
愛よりも強いのです。
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