愛の法則・2

人を好きになるという事は
自分の愛の姿を
相手に写して見る事であり、
本来、愛の本質というものは
一切の見返りを必要としないものである。
前回説いたこの前提を元に
人の「愛する」という感情を考えると、
隠されていた
この世界や人との関わり合いの本質が
見えてくるのではないでしょうか。
そこで、
・愛する人の存在は、自分の愛の発露の投影である。
・真実の愛は一切の見返りを求めない。
と、ここでは愛を
二つの法則として定義して
話を進めます。
まず、
自分の「愛」ありき。
その自らの愛を自分以外の
人を通して見る事が
「人を好きになる」事なら
その対象となる人は
本来誰だっていいのです。
結局誰を好きになったところで
そこに見えるものは
いつだって常に
「自分の愛」の姿であるわけですから。
平たく言うなら
好きになった人なら誰でも良いし、
誰でも、好きになれば愛してしまうのですから、
『今、「この人に限って」好きである
という事実は実は幻、幻想なのだ』と
気付くはずです。
そう考える事で
自分の心の中に
ツタのように絡み付く
執着や依存から解放されます。
好きになるべき人は、
「今好きである人」である必要はないのです。
誰でも良いし、
誰でも愛する対象たり得るのです。
一見、この考え方は
ドライで寒々しく、
また混沌とした考え方のように思えますが、
決してそんな事はありません。
その「愛している」という感情を
他の様々な人を通して
自由に見る事ができるからです。
それ故に、
誰もが愛しい存在たり得るし
ともすればそれは人に留まらず、
あらゆるもの、事象にすら
その愛を見いだす事ができるのです。
そんなの恋じゃない。
そう思うかもしれません。
しかし考えてみてください。
この世のあらゆる人を
あらゆる物事を、
それは仕事でも趣味でも何でも良い。
それら全てに本気で恋しようよ、
そう言っているのです。
自分が意識を向けるその対象、
それらがことごとく
恋い焦がれる対象となるのです。
そうした意識、目線で見ると
この世は愛で満たされます。
これが
「愛する人の存在は、自分の愛の発露の投影である」
という法則の
概念であり、また本質です。
それでも
自分は「恋するこの人だけを好きでいたい」
そう思うのなら
それは
真実の愛を相手に投影して見ているわけではなく、
ただの執着という
自分勝手な「欲」で
その「好きだと感じる人」に
依存しているに過ぎません。
そしてそれは
「真実の愛は一切の見返りを求めない」
という法則に反する行為でもあるのです。
人は何故執着するのか。
執着の本質は
「自分に何か良い事をもたらしてくれるかもしれない」
という期待であり、
それこそ文字通りの「欲」です。
「欲」は常に心に
飢餓感を煽ります。
持っていない。
足りない。
何もしてくれない。
そうした飢餓感が続くと人は
不安になります。
人が感じる不安感の本質は
根本に向かって辿っていくと
すべて
「安定したいという欲」に行き着きます。
さらには人生に於ける苦悩の原点さえも
元は「欲」なのです。
それは
自己に「集めようとする」ベクトルをもっています。
これが人の心を満たすと
不幸が生まれるのです。
では幸福であるためにはどうあれば良いのか。
見返りを求めない愛、
つまり
「真実の愛は一切の見返りを求めない」
という法則に則って
その心を満たす事です。
それこそ「博愛」と言ってもいいかもしれません。
「博愛」は全てに於いて、
もちろん自分に於いても他人に於いても
一切縛られる事無く自由です。
「欲」とは逆に
自己から「放出しようとする」ベクトルをもっています。
愛した時の自分の心の動きを
思い返してみれば分かるはずです。
愛する心は
常に充足し満ち足りていて、
その気持ちがどんどん湧き上がり、
溢れてくるから
人に何かしらを
与えずにはいられなくなるはずです。
そこに失う怖れなどありません。
手に余るほどに満ち足りているから。
そうした見返りを求めない
真実かつ無償の心境をもってして
「愛する人の存在は、自分の愛の発露の投影である」
という法則の観点から
全ての人、物事に
愛を投影してみるという事。
そういう生き方は自他ともに
実に優しい生き方であるし、
そうした生き方こそが
限界、行き止まりの無い
永続性のある
人としての本来の生き方かもしれません。
しかし人は
その事を忘れがちです。
だからこそ
人は常に「恋」をして、
愛を認識する機会を
自発的に増やしていった方が
良いのだと思うのです。
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