真理の書

僕自身、
世間一般的に言われるところの
「スピリチュアル」というものに
懐疑的だと言っておきながら、
妙にその概念に詳しいと思われる方も
いるかもしれません。
そこで種明かしをします。
僕自身、本屋にいくと
「思想・哲学」の棚には必ず立ち寄ります。
「スピリチュアル」と呼ばれる
ジャンルの本は、
大抵の本屋では
同じ棚か、その隣りの棚、スペースに
平積みになって置かれているのです。
本格的な哲学書は
まあ、売れないのでしょう。
まず平積みになっている事はありません。
どうでしょう、
20年ほど前からでしょうか。
そうした「スピリチュアル」本が
「思想・哲学」の棚に現れて
じわじわと浸食するように
そうした本が増えていき、
今では棚の半分以上の範囲を
「スピリチュアル」本が占拠している
印象があります。
そういう環境になれば、
こうした本を買わずとも
自ずと手にとってみる機会も増え、
そうすれば
その概念や理念も知らないうちに
知識として身に付く
というわけです。
真理に至る道筋は
人の数だけあるので、
こうした本から
真理への道へ向かう人もいるでしょうから、
それを否定する気は全くありませんが、
「スピリチュアル」本というのは
僕の目から見れば、
過去何千年も前から示唆されていた
仏教や禅の世界、
キリスト教的世界観からの
「知恵」を継ぎはぎにして並べ、
時には量子物理学の概念などを使って
弁証して説得力を強めたりしているだけで、
実は独自性はほぼ皆無なんですよね。
まあ、究極の真理というものは
ただひとつ、唯一のものに
集約されていくものですから、
同じような事を言っていて当然
という見方も出来るのですが、
僕の知る限り、
あの人(人でも神でも天使でも良い)が
言っているという姿勢で
物事を語っているものが多く、
「私が全てについてこう言う(思う)」と
責任を負っている
著者をほとんど見ないのです。
独自に思う事があっても、
必ず何かを引き合いに出して
弁証する事で、
信憑性、心象の強さを誘導しているのです。
これでは
内容は軽くなるのも
無理からぬ事と感じます。
悩める人にとって
甘美な響きを持つ
タイトルやキャッチコピーと、
比較的大きな活字と
分かりやすい最低限の言葉で
何千年も前からの哲学を
焼き直して
断片「だけ」を繋いでいる、
それが僕の目から見る
「スピリチュアル」本です。
例えば東洋思想の世界観を
解説した本と、
「スピリチュアル」本を比較すると、
辞書と赤ちゃんに最初に読み聞かせる
絵本ほどの差が
その内容にあるのです。
立ち読みで目次を見て
ぱらぱらっとページを
めくっていくだけで、
その著書の言わんとする事が
分かってしまう。
それほどの軽さなのです。
それ故に、
真理に至る入門書としては機能しますが、
ここで止まって
うろついたままでいては、
人生いつまでも
同じ事でつまずき、
同じ事で悩んでしまう。
悩むからその答えを求めようと、
また同レベルの本を読むから
なかなか先に進めないのです。
答えを求めるなら
自意識の次元から見て
ひとつ上の次元からの情報を見つけなくては。
こうして「知」は
成長していくのですから。
そして人は
本を捨てる時が来ます。
やがて最終的に
人の「知」は「書」を超え
人は「知」を生む人となっていきます。
その時、「知」を生む人は
真理そのものとなるのでしょう。
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