涅槃

不安、怒り、
孤独、悲しみ、
人は生きていれば
そうした物事に少なからず
出会うものです。
そしてそれは時に
心の傷となって、
いつまでもその感情が
焼き付いて残ってしまったりもするものです。
かすり傷程度のものから
血が出るほどに深い傷、
傷の深さは様々あれど、
その何かしらの傷を負いつつも、
それを癒し、浄化して
前に進んでいく、
それが人の人生というものなのでしょう。
癒されない、未消化な傷に
心囚われ、痛む事も往々にしてありますが、
去来する傷の元となる感情に
時には身を委ねてみる事を
赦してあげるのも
良かったりするものです。
具体的に言うなれば、
例えば悲しみの場合。
その悲しみを振り切ったり、
押し込めようとするのではなく、
その悲しみをどこまでも果てのないほどに
味わい尽くすのです。
悲しんで良いのです。
人間だから悲しくなるのは当たり前。
自分に負けないようにと、
その悲しみから
心を逃避させているばかりでは、
その傷は癒えないばかりか、
そのうち
ごまかしてきた
本心の重みに
心が折れてしまう事さえあるでしょう。
そうならないためにも、
悲しい時には
目一杯悲しむことを
自分に赦してあげる時間を作る事も
必要なのだと思います。
満たされないのなら
満たされない自分をそのまま
赦し受け止めて、
満たされない自分を存分に
味わう事が大事なのでしょう。
もちろんこうした行為は
悲しみに限った事ではありません。
寂しさや、不安、
そして怒りにだって同じ事が言えるでしょう。
もちろん、あくまで
それは人に迷惑のかけない範疇で
行なわなければいけません。
否定的な感情を否定する事、
それ自体が
実はいつまでたっても
苦悩が晴れない原因だったりするものです。
故に、否定も肯定する。
もう味わいたくない、
見たくない想いがあるのなら、
それを捨て去りたいのなら、
一度正面から
その感情をじっくり見る必要があるのです。
避けている限り
その感情は解放、浄化される事はありません。
手放したいならば、
自分の手に取って放り投げなければならない。
部屋に落ちたゴミは
自分の手で拾ってごみ箱に入れない限り、
いつまで経っても
ゴミは無くならないし、
そういう行為をしないと
部屋はどんどんゴミだらけになって
汚れていってしまう。
ゴミは拾って、
そのゴミが何なのか、
どうしてゴミとなったのかは
きちんと知る必要があるでしょう。
しかし、
ここで肝心なのは
心の軸がどこにあるかという事です。
心の中心、軸が
さざ波のように揺れ動き
移ろう感情の只中に置かれていては、
その波にただ翻弄されるばかりです。
真の自身の心の中心というものは
常にフラットに「それを体験している人」
であるという核心に
気付いていないと、
いつまでも
去来する否定的な感情の処理に
困惑し続ける結果となってしまいます。
押し流される感情の波に乗る自分が
本当の自分だと思っているから
その否定的な感情に困惑する。
困惑するから
見ないようにする。
封じ込めてしまう。
そうすると
浄化出来ない感情が
どんどん堆積し、
やがて心を蝕んでいく。
悩みの多い人は
この悪循環にはまっている人なのです。
このように、
感情と心を分離する事は
一見、解離性人格の素地を作る
危険性をはらんでいるような
印象がありますが、
人格を解離させる事とは
似つつも大きな違いがあります。
病的に人格が解離してしまった状態とは、
沸き起こる
さまざまな感情の
あらゆるところに
複数の心を軸を持ってしまう事です。
あらゆる感情に心の軸があるから
その感情に絡み付いた
偽りの人格が
まるで
それぞれの別人のように発現するのです。
それに対し、
フラットな視点でそれを体験する人
という、いわゆる
本当の自我。
これのある場所を知っている人は、
どんな感情が心に湧き出ても
自分という軸がぶれないものです。
空に湧き出る雲が
日差しを隠す事もあれば、
影を作る事もある、
そのように感情というものを捉えています。
これは決して
人生で体験する物事に対して
クールであれという事とは
全く違います。
真っ暗な土砂降りの天気も、
薄雲がかかって日差しが淡くなる陽気も、
雲一つない快晴の空さえも
所詮は
同じひとつの空であり、
どれもまるで「実体験」しているかのように
感じ、知り、そして愛(め)でる。
そうすることで、
またひとつ
空の表情を「体験」というコレクションの中に
加える事が出来る。
故に、むしろ逆に
真実の自我の目で見る事は
物事を冷ややかに見るのではなく、
全力で愛することなのです。
あたかもそれが
現実であるかのように。
真実の自分からは
この世に起こりうるあらゆる物事が、
水晶玉に映し出される
絵物語のように見えることでしょう。
そして気付けば
心の奥深く、手の届かないところに
存在しているものと思っていた
真実の自分を超越し、
そんな「自分」という発現すらも
小さな枠の中に閉じ込められた
とるに足らないものであった事を知るでしょう。
そこは静寂で
何もそよがない。
かと言って味気ないものであるどころか、
むしろ
この世界を形作るあらゆる
心象的な要素全てがそこには詰まっており、
決して断絶などされていない。
大昔の知恵深き人は
それを涅槃と呼んだそうです。
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