音楽がついえる

音楽をやれる状況というものは、
年々厳しくなっています。

それは僕が歳をとったからという
個人的なことだけにとどまらず、
音楽を『普通に楽しむ』という
公で広い意味においても
状況は非常に逼塞しています。

あと50年もすれば
音楽というもの自体、
無くなってしまっていそうなくらいに。

もう何十年も、そういうものと
疑わずにいられた従来の形の音楽活動は
完全に消耗戦状態に入っています。

実績を持った人であれば
それだけの蓄えがあるので(お金だけの意味ではなく)
その分はしのげるでしょう。
けれど、僕のようにほとんど実績のない人間は
本当に風前の灯です。

もともと、昔から
縁の無かった人は
そうやって音楽を諦めていくものなのだ、
そういう解釈もできるのでしょうが、
今回の危機は
そういう表層的なものではないのです。

ひとりの人が
音楽を続けられなくなり、辞めてしまうだけ
というのなら、まだ良いのでしょうが、
今は音楽そのものが無くなって、
音楽を作る必然そのものが消えつつあるのです。

純粋に音楽そのものが、
世間的にも必要とされていた時代に、
音楽の道を諦めていくのとは質が違います。

今の時代、音楽というものは
さして求められてはいないのです。
なぜなら、
結局、商業的に実績を残すことのできる音楽
というものは、
「もうすでにある」し、
作る側も、受け取る側も
その「もうすでにあるもの」で十分に
事足りてしまっているのです。

新しい別の何かというものは
必要ないし、
実際、今あるもの以上の新しく良いものが
まだ人知れずあるのかどうかも分かりません。

一般的な音楽という媒体の
捉え方として、
「音楽は作品」どころか
もう「商品」でさえありません。

故に、音楽は「暇つぶし」の一つになり
「何か」が生まれることがないから、
カラオケを歌うことと、
音楽を表現することが
一般的な価値が同じになってしまったのです。

こういう土壌で、
旧来と変わらない目的意識や価値観で
音楽に臨んでも、
やがて行き止まりになるのだろうと
感じています。

他の音楽を志す人の
多くがしていることを、
自分も同じようにしていても
その先にあるのは、
疲弊と浪費だけでしょう。

それでも音楽をと求めるなら
もう、ここから先は
自分が「自分の世界」を作るしかないのだと思います。

自分の手で
音楽の価値を再定義し、再構築しなければ
本当にもう、先はない。

この答えを見つけられた時、
第二の音楽人生を
歩み始めたのだと思えるのでしょう。

現状、老いも若きも
音楽を志し、
真摯に突き止めようと欲する人の
9分9厘の人が
必ずこの壁に突き当たります。

昔から変わらず同じ壁なら
まだいいのかもしれませんが、
この、今の閉塞していく音楽の環境にあっては
日に日にその壁は
越えるのに厳しい壁となっているのです。

大げさな話ではなく、切実に、
もうすぐ音楽が
ついえる・・・。

いつからこんなに
音楽というものが
窮屈なものになってしまったのだろう
と思ったりするのです。