何にもないって事、そりゃあ何でもありって事

昨日の記事とも繋がりとして、
自分の居場所がないこと自体の本質は
悲壮感にあるわけではない(笑)
という意味合いも込めて
もう少し突っ込んでお話し
しておきたいと思います。

居場所がないということは
それすなわち、
帰る場所がないということでもあります。

表層的な部分だけをとってみれば、
おそらく、とても寂しい生き方と言われても
反論の余地はないと思います。

けれど、
まあ「寂しい」というなら
それでもいいのですが、
ここで「無」についての実像について
考えてみて欲しいのです。

はやかれこれ20年近く前、
X JAPAN(個人的にはJAPANをつけたくない・・・)の
故hide氏はこんな歌を唄いました。

『何にもないって事、そりゃあ何でもありって事
君の行きたい場所へどこでも行ける』
と。

僕が言いたい事は、
要はこれに尽きるとしか言いようがない。

正直、ぶっちゃけた話
僕は本当に何も持っていません。
このタイミングでしれっと
カミングアウトしちゃいますが、
2016年現在、
仕事もない・・・(笑)
どこにも居場所がない。

けれど、居場所というけれど、
人が考えるところの
「常識」という条件に照らして
そこから漏れる僕は、結果的に
行き場所を失っているだけであって、
むしろ「常識」という枠を取り払えば
これほど自由な事はないのだと思えるのです。

むしろ幸せな人生を生きている。

例えば変な話、今僕が何か
新聞沙汰になるようなことでもしたとして(笑)
ニュースでは僕のことを
「自称」ミュージシャンとか言われるはずです。

こう聞くと、大抵の人はここで
「ぷ」とか言って鼻で笑うのでしょう。

けれど僕の価値観らからすれば、
別に人から
いっぱしのミュージシャンと評価され、
そう呼ばれることは、
どうでもいい話なのです。
そんなことのために音楽をやってはいません。

むしろ、誰が何と言おうとも
僕自身が「音楽をやりきっている」と
胸を張って言えるかどうかが
僕にとっては大切なのです。

こう言えば、普通の常識人であれば
「まあ、自分がそう言うならお好きに」
と返してくるのですが、
生きるために
好きでもないことに振り回されて
自分を殺して生きていくことの方が
よっぽど業が深いと
僕には思えるのです。

前述のhide氏の歌詞にある通り、
何にもないということは
何でもありということなのだとすれば、
逆説的に
何かを持っているということは
それを手放さないようにするために、
何かを無くして、自分で自分を
縛ってしまうことなのだと思うのです。

かく言う僕だってそうです。

音楽があるから、
生き方を音楽に縛られているわけで、
ある意味僕は音楽の奴隷なのでしょう。
そして、社会に適応して生きている人は
社会に縛られているわけで、
そういう人は社会の奴隷なのです。

僕も音楽に縛られなくなったら、
もしかしたら
ただでさえ居場所がないところに、
生きている理由さえも無くなってしまうのでしょう。
生きる必然が無くなる。

けれど、それだけ純粋に
音楽に向き合っていられることも事実です。

それほどに僕は
何も持っていない。
それ故に自由だし、
欲を言えばきりはないけれど、
贅沢を望まなければ
むしろ幸福ですらあるかもしれない。

一日、一日、
命が削られていくことを
ひしひしと実感しながら
音楽を作っています。

自分の中にある残したい音楽が
命尽きるまでにすべて
出し切れるのだろうかと思ったりもします。
あまりに僕に与えられた時間は短い。
寄り道している余裕はもうありません。

残りの僕の命は
全部音楽に使うつもりでいます。

そして僕の今の生活は
充実しています。
エンディングに入っていますが・・・(笑)

若いミュージシャンよ、
お前らは音楽に命張ってないから
お遊戯にしか見えないんだよ!
かったりーんだよ!

(笑)