居場所とは、

20年ちょっと前、
まだ僕が20歳半ばすぎくらいの
頃だったでしょうか。

僕のこれまでの音楽活動を知っていたり、
ブログを読んだりしている方なら
ご存知の通り、
その頃というのはバンドをやっておりまして、
そのバンドが解散した後
僕は新しいバンドを組むことはせず、
より僕自身の音楽を追求していける形を求めて、
ちょうど今のような形が「答え」となるような
模索をし始めていた頃です。
具体的には、要するに
パソコンを使った曲作りを主軸に置くようになった頃です。

自分の所属するバンドというものがなくなると、
やはり何かと時間に余裕ができるものです。
スタジオに入ってリハーサルをしたり
何かしらの話し合いだとか、連絡だとか、
そういう案件がなくなる分だけ
時間に余裕が出てきます。

高校生の頃から
ライブハウスなどでバンド活動を
途中に休止期間があって
音楽活動が途切れることなく
ずっと続きでやっていたこともあり、
「一般の人」の感覚が身についていなかったことが
気にかかるようになってきました。

小学生からの幼馴染の友人などは、
ごく一般の生活をしていて、
20代も半ばになると
さすがに「身を固めるための」仕事を
するようになっていくのは
当然のことです。

音楽業界から事実上離れるような形で
僕は一般の人の
世界観、価値観で生きてみようと思い始めたのが
だいたい今から20年くらい前のことです。

けれど僕にとって、
一般人の世界というものは
惰性と打算と割り切りで
生きていく世界なのだと悟って、
そこで幻滅したものです。

結局、旧知の友人たちとも
話(というか価値観)が合わなくなって、
ある日、我慢の限界が来て
その世界から立ち去りました。

今思えば、
僕ももう少し上手なやりようがあったのではと
考えられなくもないのですが、
おそらく、急に交流を断絶してしまった
僕のことを、
旧友は「またこいつの気まぐれ」と
気を悪くしたのだろうなと思ったりします。

これが僕の悪い癖なのだと思っています。

ここが自分の居場所じゃないと悟ると、
誰に理由を告げることもなく
突然居なくなるのが僕の悪癖。

もっと、
「自分はこう思う」
「いや、お前はそう考えるのか」
というやり取りを
やれなかったのだろうかと
今になって考えるのです。

これは、具体的に何ということではなく、
なんというか、
僕の生き方全般に言えることでしょう。

肌に合わないからと
一方的に立ち去っていく生き方をした
僕の結果は結局、
根無し草でした。

いや、
肌に合うか、合わないかという
そういう小さい部分の
問題ではないのでしょう。

肌に合う人を探し続けたところで、
そうそう、そのような人にめぐり会えるわけではありません。

肌に合わない人ともまた
「和」をなすことこそが
大切なことであり、
僕はその大切なことを
それまで避けて生きてきたように思えるのです。

これは僕自身の反省です。

いつまでたっても
居場所も帰る場所もない僕を
自然に受け入れてくれる
今の交遊関係は
この先も大切にしたいと
本当に思えます。

よく、ここまで
何も持たない僕を
普通に受け入れてくれるものだなと。

それでもやはり僕は僕。
僕はたった独り。

けれど、そもそも
誰もがたった独りなのだと。
たった独りで、自分の居場所を作り、
そこを通りかかったり、
足を止めていってくれる人と
誠実に向き合うことで
より世界は深く大きくなるのです。

家族であるとか、
友達であるとか、
そういうこと以前にまず、
「ひとりの人生を生きる自分」同士が
互いに「自分の人生」を重ね合って
過ごす時間が持てるということは
実に貴重で尊い体験のように思えます。

自分の人生を流れる時間を
他の人と重ねあわせて共有していけることは
一見、何でもないようなことのようですが、
実は、自分が自分であるために
不可欠なものだったのだと、
この歳になって
ようやく思い知るに至ったのです。

居場所というものは
受動的にそこにあるものではなく、
能動的に
自分で産み出していけないものなのだろうなと
そう思うのです。

けれど、遅きに失した感がありますね・・・。