履き違えられた信仰

長い人類の歴史を振り返ると、
もしかすると人間は
「信仰のしかた」というものを
履き違えてきたのかもしれません。

ここでいう「信仰」の対象となる
「神」という概念でさえ
実は本物ではないとさえ思えます。

人は「神様」というと
大抵は
自分以外の、より高尚なもの
として捉えます。

けれど、
そう捉えているのはあくまで
「自分の認識」なのです。

自分がそれを「神」と認識しなければ
それは「神」足り得ないのです。

それは本当に「神」でしょうか。
そうではないはずです。

せいぜい人間の認識力から導き出される
「神」の概念などというものは
たかが知れていて、
人間がそれを認識して「神」と呼ぶ頃には
神からは程遠い、
かくも卑小にダウンサイジングされた
「神様っぽいミニチュア」に過ぎないのです。
まずもって「神」のそれではありません。

こうして外側へと劣化コピーされた神の教義で、
今の世界では実際に何が起こっているでしょう。

世界というのは何千年も前から
『外側に転写した神の劣化コピーの差異』を
問題にしてずっと殺戮が続いているのです。

この外側に転写された「神」が本物だとすれば、
その「神の意志」なるものは
『人類が殺しあい、奪うことを賛美する神』
であると言えます。

たかが人間の認識の範囲に存在する神などというものは
かえって苦悩や葛藤を生む「害悪」に他ならないのです。

それもこれも全て、
人類がそもそも「信仰のしかた」自体を
間違えていることによって引き起こされる
悲劇なのです。

人が考えるところの神様というものは
『人を救いません』
それどころか、
原罪や掟を押し付けて
人間をその影響下に置いて
コントロールする存在です。

そのような神様にすがっているから
人間はいつまでたっても
救われないのです。