「延命」が生きる意味を隠す

医療が発達して
人間の寿命が延びたというのは
もうほとんど常識のように
すでに誰もが知るところの事実ではありますが、
結局、人の寿命が延びて
もたらされたものとは、
先延ばしにして棚上げにしてしまう
猶予を持った人生と、
それを是としてしまう社会だけ
だったのかもしれません。

人それぞれの主観の程度こそあれ、
長寿であることと
人の幸不幸は比例はしません。

往々にして比例するのは
そもそも人生においての
幸不幸というもの自体、
それは実に主観的であり
また一過性のものであるのに、
人はそれを永続的なものと
勘違いすることによって感じる、
延びた人生による束縛感の強さなのでしょうか。

多くの人にとって
「死」や「苦」というものは
やはり忌み嫌う概念ではあります。
それゆえに医療が長寿を実現した
そう言っても過言ではないでしょう。

しかし、それを取り除く(ある期間だけでも)
術を手に入れたことで、
人は生涯の中で考えるべき物事を
先送りにする悪癖が
身についてしまったのではないかと思うのです。

先送りし続けることで、
考えるべき事柄について
見ないようにしているうちに、
人はそのことについて
本当にそれが見えなくなる。
考えなくなる。
そして
「無いものである」と思い込むのです。

例えば余命3日と宣告されたとき、
「これが自分の天命です」と
自負して仕事をしている人で無い限り、
朝起きて会社に行っている場合ではなくなるはずです。

こういうときにこそ、
人は「人の作った社会」からの
解脱を図ることができるのです。

大昔の人は(平均)寿命が短かったからこそ、
死ぬ前にやっておくべきことを
早々に見つけ、実現することができたのですが、
今の社会というものは
それを実現するのが難しいというか、
実現させないそれになっている気がします。

医療や福祉、ゆくゆくは介護、
そういう漠然とした未来の安定を担保に、
天命は隠されて、
奴隷として生きることを強いる社会。
これが現代社会なのです。

それこそ、究極的に医療が発達したとしたら、
その生涯を奴隷として捧げなくてはならない
状況にもなりうるのだろうと考えられます。
そしておそらく、
解脱した人からそうそうに
(社会保障の適用から外れて)死を迎えられる、
そんな世の中が
到来する可能性もあるのです。

長寿は幸福ではないのです。