昏睡する社会で足掻け

当然、誰しもが
自分に良かれという意志のもとに
生きる権利があります。
それも、老若男女どころか善人悪人問わず
人間という存在すべてに
絶対的かつ大いなる自由意志によって
あらゆる現実を生きる
権限を与えられています。

故に、誰しもがすべからく
自身にとっての「利益」を
存分に享受することも肯定されるのです。

少なくとも、
民主主義や自由主義の根付いた文化では
この理念が必ず基底にあって、
それが尊重されてきました。

だから誰もが、
自分に良かれと思って生きてきたし、
利益を得る権利も与えられて
生活しているのです。

自分に良かれ。

そう、これが今の
人間の文化を蝕んでいる病巣となっているのです。

それでもやはり、
「自分に良かれ」でいいのでしょう。

けれど、それを是として
誰もと同じように、あたりまえのように
「自分に良かれ」を通してきた結果、
社会という基盤自体が腐食して
崩れようとしていることに
どれほどの人が気付いているでしょうか。

単刀直入に言うなら、
気づけば
自分の益を得る以前に、
その益を得ることのできる
苗床であるべきところの
社会そのものが機能不全に陥っていた
という薄ら怖さとでもいうのでしょうか。

野菜を育て、たくさん育て続けているうちに
土壌自体が痩せて
野菜そのもの自体が
生きられない畑になってしまっていることに、
ようやく気付いたと喩えてもいいでしょう。

自分の利益以前に、
まずこの機能不全を起こした
社会を修復するべきではないのか。

間違いなくそうでしょう。

しかし、危篤に陥った社会構造は
そうそう健全化できないこともわかっています。
健全化できないというより、
健全化させないと言い換えた方が正確でしょう。

「長いものに巻かれて生きればそれでいい」
そういう考え、思想が、
「社会」という「いのち」から
生命力を吸い尽くすのです。

こうして「社会」という土壌が痩せ、
痩せた土壌からは
痩せた生命しか生まれなくなるのです。

「社会」から生命力を
取り戻すべきであると考えます。

まどろむように死んでいく「社会」に対して
まだ生きていることを示すためにも、
今はただもがくしかないのかもしれません。

臨終の際の最後に
死に行こうとする人の名前を呼んで
身体を揺すって呼び戻すように、
ただただもがくしかない。

自分のための利益、
自分のための希望、
自分のための夢、
そうしたものは
この今生きている社会の中で
実現されるものです。

実現させるべき社会が死んでしまっては、
そうした自分の野心も叶うことはないのです。

この社会は
生きさせるべきなのか
死なせるべきなのか。

あるいは、脳死した人間のように
人工呼吸器と栄養を意図的に送り込んで
昏睡状態のまま延命を図るのか。

今の社会はおそらく、
脳死した人間を
「生きている人」と見なすように
社会を捉え、生きながらえるのでしょうが、
脳死した人間とて
そのまま永遠に肺や心臓が
動き続けることはないのです。

いずれは、断腸の決定が求められる
そういう日が来るのだろうと思います。