堕落システムの中で価値が出るもの、無くすもの

この世では大切なものほど
軽んじられると思えます。

音楽が売れなくなって(値が付かなくなって)
久しいですが、
音楽がそうなるよりも早くに
文学は売れなくなりました。

哲学や思想に至っては、
一般の人にとっては
存在するようなしないような、
かろうじてそういう
「名詞」だけは見たことがある
という程度の影の薄さとなってしまっています。

資本主義の原理を考えれば
当然のことなのですが、
資本主義の社会構造のなかでは
儲からないものは
たとえ素晴らしいものでも
作られないのです。
逆に言えば、
粗悪なものでも売れれば
量産されるのです。

その結果として
何がもたらされたかといえば、
人間が本能的に欲するもの、
例えば食欲や性欲に関わるものだけが
嗜好される文化だったのです。

人は心や精神の体験、
つまり形が見えず、手に取る事もできないものには
お金を払いたくないもので、
お金のやり取りが成立しないものは
そこに価値を見出す事ができないのです。

お金に換算できる価値を
見出す事ができない人が多いから、
動物的な欲求を超えた次元にあるものに
価値と金銭が結びつかないのです。

一人ひとりの精神から
社会、産業、文化、そして自然環境と
あらゆるところにこの構造が貫通する世界、
それが今の資本主義と民主主義の限界なのです。

人の得にならなければ
自生する自然さえも破壊してしまうのが
この社会なのです。

現状、世界ではこの社会システムが
一番無難であることは認めます。

しかし、
稀に見る「堕落システム」でもあるのです。

吸い上げる側と
吸い取られる側のどちらかしかいない、
いやもしかしたら、
実情として吸い上げる側もまた、
そのシステムを運用、維持させようとする
見えざる力学によって
同様に吸い取られる側の人間なのかもしれません。

そうしてみるに、
誰もが坂を転がり落ちていくような
そういう社会を生きているとも言えるのです。

そしてこの「堕落システム」は
この世にとって、あるいは
そこに生きる人にとって
最も大切なことは
「無価値なもの」として目隠しをして、
見えないようにしているのかもしれないのです。

本当は大切なのであろう「それ」は
「欲を満たさない無価値なものである」から
見る必要はない、と。