今、死を望む人に読んでほしい

今、命を絶とうとしている人に言いたいです。

身体なんて、いつでも壊す事ができる。

けれど、今のその心境で
実際に身体に傷をつけて壊したところで、
抱えている心の痛みからは解放されないです。

そこで知って欲しいのです。

本当に破壊し、解体し、
すべてを無に帰さなければならないものは
その
「死んでしまいたいと欲する」
自我そのものなのです。

きっと今、その壊されるべき自我が
死にたいと望んでいるのでしょう。
「本当の自分」とは
似ている別のもの。
エゴとでも言うのでしょうか。

身体を解体するのは
明日でも明後日でもできます。
身体より先に
その死を望む自我、エゴを
自らの手で殺し葬ったほうがいい。

もうどうしようもない自分を
自分の内的世界で
心で尖らせた刃物を手に取り、
自分の喉元、心臓、腹わた、
とにかく自分のあらゆる場所を
怒り、怒り、怒り、
呪い、呪い、呪い、
恨み、恨み、恨み、
刺し尽くせばいい。
殴り続ければいい。
えぐり続ければいい。

もうバラバラになるまで
「死にたいと望む自分」の
望みが叶うまでとことん
自分を殺しきってやるのです。

自我は生半可に死んだりはしません。

こちらが打てば打つほどに
それはまるで鉄を鍛えるかのように、
強固になっていくでしょう。

その鋼のように硬化した自我さえも、
とにかく打ち砕くのです。
徹底的に自分を殺しきるのです。

もう身動き一つも出来ないほどに。
もうかつてどのような形であったかも
判別出来ないほどに。

完全に自我を解体してしまうと
おそらく、
自分が自分である意識すら
なくなっていると思います。

というか、
そうならないうちは
まだ自我は解体されてはいない。
まだまだ、自我は生き
手を緩めればすぐにでも回復して
のうのうと自分をコントロールし始めるでしょう。

自分が誰かもわからなくなるまで
殺しきってもそれでも自我は
ゾンビのようにうごめくかもしれません。

このゾンビになった自我さえも
沈黙するまで殺しきるのです。

種明かしをすると、
こうやって自我を解体していく中で、
自分に向けられた
徹底的に強い殺意が、
その真逆の
「自分への強い愛」へと
ふと転換する瞬間があるのです。

完全に自我が沈黙した状況下で
憎しみから転換された
「愛だけしか残らない」
そういう境地に一瞬でも達する時があるのです。

おそらく、
呪う気持ちと愛する気持ちは
表裏一体のものなような気がします。

自我のゾンビは、
それを覆い隠そうと躍起になるでしょうが、
隠そうとしている自我である
「自分」というものは
本当に殺されてしかるべき存在です。

何度生き返ろうが、
何度も殺しきってしまうのです。

ゾンビの心臓に無心になって
杭を打ち続ける時、
自分の分身であるそのゾンビが
愛おしく思える瞬間が垣間見えるまで。

憎しみをぶつけるために
刺し続けた刃物が、
愛をぶつけるためのそれに
変わる境地があるのです。

その愛おしく思えるそれを守るために、
そして自我という檻から解放するために
自分(自我)と徹底的に戦い、殺すのです。

こういう過程の中で
たとえ一瞬でも見えた
「愛の片鱗」さえも否定する自分が
そこにいたとしたなら、
遅かれ早かれ、
もうそんなに遠くない将来、
本当に悔いなく
自分自身を死なすことができるでしょう。

というか、
ここまでやってもなお
愛を否定するのであれば
もうその時は
必然的に「生きた状態にはなっていない」です。

自然に、必然として
死を迎えられる。

身体を解体しても自我は満ちません。

解体し、殺すべきは
その「満たされたいと叫ぶ自我」
そのものなのです。

身体を殺すのもいいでしょう。
しかし、その前に
その「死のうと思う自我」を殺さないと
死ぬに死に切れません。