世俗は棄てて良い

昨日、ひきこもりについて
言及したついでに、
では結局、僕個人についての
ひきこもりとはなんだったのか、
そこについても語っておこうと思います。

あくまで「僕個人としてのひきこもり」
であることは留意していただくとして。

結論から言うならば、
僕にとってのひきこもりというものを
簡単に言ってしまうなら、
「このまま社会装置の一つとなっていくこと」への
自分なりの人生をかけた
最大の抵抗だったと考えています。

僕の人生の中では、
ずっと人生をかけてきたバンド活動が終わり、
自分の中での音楽のあり方を再構築する
転換点を通るその過渡期というか、
「ギタリストというバンドマン」という
自分のアイデンティティから
「シンガーソングライター」というそれに
変態を遂げる前の蛹となっていた期間、
そのように解釈しています。

それこそ高校生の頃から僕は
ライブハウスでバンド活動をしてきて
20代半ばまでの期間というものは、
今でもそう思っていますが
どう見ても「一般人」ではなかったし、
また本当に「一般人の世界観」というものを
全く知らないまま20代も半ばを超えて
これでいいのだろうかと思うところがあって、
一度バンドのある世界から離れて
一般人の世界観の中に溶け込もうとしたのが
そもそもの始まりだったのかもしれません。

一般の同級生の人たちとの
付き合いがあった時期でもあります。

けれど僕から見ればやはり、
一般人というのは
「楽をするために働く」という行動理念に
一切の疑問を持たない人たちの
集まりだったことに
大きな失望を抱いたのです。
まあ、それはそれで悪いとは言いませんが、
僕の価値観とは合致はしないです。

バンドの世界から距離を置いて
帰れなくなって、
かといってもう一般人の価値観に合わせてまで
欺瞞を抱きながら、彼らと共に過ごす人生も
絶対に違うと思ったのです。

ではそこで自分に何が残ったかというと、
何も残らなかった。
というか、何も無くなったと言った方が
正確でしょう。

ただ単に、社会に対して
とてつもなく非力な自分を見つけただけでした。
それもただ非力なだけではない。
自分の持病に関する負い目という
ハンディキャップまで抱えてしまっている。

当時の家族でさえ、
僕を全否定しました。

正直、この時の家族の言動は
客観的に見ても
僕が受けた、人間の尊厳を軽視したその物言いは、
人として明らかに間違っていたと思っています。

今、歳をとってみれば
人間過つことの方が多いのだからと
一歩引いたものの見方もできるのですが、
若かった自分、それも八方塞がりで
自分の人生を軌道修正する術を全く失って
テンパってしまっている自分にとってみれば、
そうした親の言動というものは
完全に自分を崩壊させる
とどめのひと突きとなったのです。

その結果、ひきこもった僕だったのですが、
そこで先日書いたように、
ひきこもることによって
自分は何を体験したのか、
何を思ったのか、何を学んだのか、
そして何を悟ったのか。

これらに事柄に、
現状として未だ答えは見いだせなくとも、
問いを立てられるようになっただけでも
「ひきこもる」という行為に
必然的な正当性を与えることは可能だと考えます。

全ての人間関係を絶って、
完全に一人ぼっちになった時、
そこには
完全に条件付けを持たない
純粋な自分の存在を
否定するにしろ、肯定するにしろ、
いずれにしてもその存在を
認識することができるのだから。

これは、長いものに巻かれた人たちという
その日の欲求を満たすためだけに
その存在自体を費消することに
時間を費やす群れの中では
決して見つけることのできないものです。

普通、人をして何度生きようが
見つけられないどころか、
見つけようともしない人が多い中で、
「最も純粋な自分像」というものを
認識することができたという点で、
僕の場合、実によく「ひきこもり」は
機能したと思っています。

20年近く前、
僕が数年ひきこもらなければ、
僕の書いているこのブログはないです。
このブログが無いということは、
このブログを読む人もいないということであり、
やはりそこには
必然という糸に導かれた「場」があって、
このブログを中心に
僕も、またこれを読む人も
その「場」の観察者であるのかもしれません。

ひきこもるという「原因」に対して
こうして書き綴られるブログが
「結果」としてあるというのなら、
今この瞬間というものは
常に「結果」であるのだから、
その「結果」の意味するところもまた
今、ここに
「過去というアーカイブ」にあるわけで、
そのアーカイブから導き出された
「結果の意味」というものが
未来の結果を形成する
「原因」を同時に生成しているのだろうと思います。

ここまで読んで、
ああ、ひきこもっちゃうとこうなるんだ、
と嗤う人と僕とは
おそらく合い入れないでしょう。

これについて無思慮に嗤える
メンタリティの所在は、
都合の悪いことは
目先の快楽で覆い隠して、
ひたすら浪費していく人生を歩む
「一般の大勢の人」の生きる世界であり、
やはり、そこは僕にとっての
生きる場所ではないし、
居る必要もない場所だと悟ってしまえば、
人生、あれこれ自分から
レッテルや条件をつけて、
自分のつけたそれに一喜一憂して
右往左往する生き方が
滑稽にさえ思えてくるのです。

相変わらず僕は社会的には無力だし、
また隔絶された場所を生きていると言われても
反論できないかもしれません。

そういう立場にあって、
純然たる正当性を持って僕は
ここで「無迎合主義」を唱えました。

けれど、ああして
ひきこもったことによって
快楽だけを追い求め続けた人たちよりは
よほど人間的で、情緒にあふれ、
そして賢い生き方を知る「知恵」は
得ることができたと思えますし、
より浄土に近い生き方もできていると思います。

僕にとっての「ひきこもり」とは
おそらく、この社会構造からの解脱、
俗に言うところの
「出家」だったと思えます。

というか、昔であれば
僕のような人に対して
「出家」というオプションが与えられて
それが受け皿になっていたのかなと
思ったりもします。