母性と父性

「母性」を考える上で
その相対相として考えるべきなのは
当然「父性」であると言えるでしょう。

「父性」を考える前に、
まず生物(生命)の本質は
メス(女性)であるというところは
押さえておかなければならないと思われます。

理由も何も、
とにもかくにも結局、つまるところ、
新しい生命(生物)を
創出、産出させることができるのは
メス以外にないからです。
そういうメスの本質に対して
オスというものは
メスが生み出そうとするものの
エッセンスという「方向付け」を
為す存在にすぎないということです。

「方向付け」

実はこの要素というものが
強ち大切になってくるところでもあります。

「母性」というものは
純然と肯定し、与えようとし、
あらゆる存在をも次代へと承継しようとする
性質があります。
これはまたアガペー(博愛)の発露を
意味するところかもしれません。

しかし現実においては
「博愛」だけが存在する世界というものは
「混沌」にほかならないのです。

悪しきものまでも肯定し、
許すのがアガペーであり、
母性であるというのなら、
母性は自らの性質たるところの
博愛によって皮肉にも、
自らの生み出した混沌によって
瓦解させられてしまうのです。

それを抑止するのが「父性」であり
「母性」を健常に機能させる役割を
持っているのです。

故に「父性」とは
「母性という本質」に付随する形、
あるいは「母性の二次兆候」という現象として
存在しうるものなのでしょう。

ここで性差別的な論議や
フェミニズムの観点での見解へと
展開していくのでしょうが、
そこへ転化していく前の段階において、
それでもやはりあくまで
「主体」は母性であると言わざるを得ません。

「母性」は生命のみならず、
この世の万物を存在足らしめる顕われであるのだから。

ただし、博愛である「母性」には
善し悪しという二元的な概念を持ちません。
良くも悪くも、無指向的な「母性」に
方向性をもたせて
存在の意味づけを可能にするのは
「父性」のみであり、
決して「母性」のみで、
その一定の実存を評価することはできないのです。

故に「父性」というものは
「母性」の副次的存在であるということに
変わりはないのですが、
その「父性」というものは
「母性」の唯一絶対的な欠落を
補う形で存在し、それが機能しているのです。

この世の開闢より、
男性性と女性性が二分されたのは
この両性で一つの世界という、
至極基本的なこの世の理念と、
その存在を維持させるための
『この世で一番最初の離別』
であったのかもしれません。