ひきこもりというエクソダス

結構な昔、
このブログでも書いた覚えがあるのですが、
僕は「ひきこもり」を経験しています。

20代の終わり頃でした。
3年近く引きこもっていたと思います。

まあ、幸か不幸か
ひきこもることの出来る環境に
当時はあったということは事実です。

僕の経験則でしかないのですが、
ひきこもる理由というのは
そうそう簡単にこれですと
具体的に明示できるような
単一の要因、エピソードによるものでは
ないだろうと思うのです。

実際、自分の経験を振り返ってみても
それはやはり、
『外的なものからくる』
様々な心的負荷と
その負荷を別の方向へと
逃すこともできないほどに
「自分の生き方が閉塞していた」
ということと、
『内的な意識的諸環境』という
内外、あわせた両面が
複合的に絡み合ったとき、
その特定の条件が満たされ
(と言うより、
自分を自分たらしめる拠り所としての
特定の可能性が排除され)
ひきこもる方向へと
向かってしまうのではないかと
僕は考えています。

そもそも、
行政などがこの問題に対応する際の
「ひきこもる」という行為について
言葉のイメージだけをもってして
画一化した「ひきこもり」の
ステレオタイプに押し込めてしまうのは
「ひきこもること」の本質を見ていないと思えます。

ここで再認識しなければならない
重要な事柄があるのです。

「ひきこもる」という言葉自体、
『社会という集団の中で適応した人たち』
という立場の視点からの言葉であり、
ひきこもった立場の人間からすれば
自分のしていることは
『現状の社会構造、集団行動思想』からの
脱退、解脱を意味していることも
あるのだということ。

社会からの脱退、あるいは解脱を
本人が望んで選択したとしたら
そこに「ひきこもり」という病理さえ
存在、成立しないものである。
これはおそらく「ひきこもり」の心理を
紐解く鍵ともなりうる
定理なのではないかと感じます。

病んでいるのが社会だとしたら、
そして健全なるものが
それを回避するように
そこから離脱するのだとしたら、
病んでいる集団という立場の人たちにとって
そこから解脱してしまった人の方が
異常行動を取っているように
思えるのかもしれないのです。

病人ばかりの集まりの中で
上手く立ち回るには、
自分もまた病気になるべきなのか。
その選択に対して
病気にならないことを選ぶことで
「ひきこもり」と呼ばれる人たちも
いるのだということ。

編んで流されていく群衆に対する
最後の無言の抵抗、
言うなれば
「内的なハンガーストライキ」
だったのかもしれません。

もちろん、
「ひきこもる」ということは
個人の体験であるわけであるから、
上に述べたことだけが
「ひきこもり」の唯一たる
メカニズムであると断じることはできないでしょう。

上述のケースとは逆に
社会の病態以上に
病んだ心を持ったが故に
ひきこもってしまうケースだって
おそらく同等に半数はあるのだと思います。

いずれにしろ
理解しておかなければならないのは
「ひきこもり」という定義は、
「適応した社会人像」という「枠」が
あらかじめあって、
社会全体がその
適応する社会人像の枠内を生きろという
無言の強制(前日話した迎合要求)に
諸事情によって
応じられなかった結果である
と言うことができるのだと思うのです。

この「社会人たる枠」というものは
当然、法律とかそういう
表層的なものを指しているのではありません。

それこそ、文化や習慣として
深く根付いた「常識」という
多くの人にとっては
「解体させずに維持しなければならない」
秩序のことを指します。

この「常識的な社会人像」という
ともすれば外圧たり得るような
「迎合要求」が社会で作用している限り
「ひきこもる人」は存在し続けるでしょう。

ヤンキーやオタクがこの世から消えないのも
実は同じ構造的病理が
世の中に根を張っているからなのです。

では、ヤンキーやオタクが
秩序の保たれた社会の中で
「病んだ者」であると
ひとくくりには言えないように
(言えるのなら、世の中の人を見ていないからでしょう)
「ひきこもること」もまた
病んでいるとは言えないし、
ヤンキーやオタクの中でも
そのうち飽きて卒業していく人もいれば
一生、そのままの人だっている。
そういう彼らと同じように
「ひきこもる人」もまた
社会分布的見地からすれば
「層」という群なのです。

理想論だけでいうならば、
それこそ
「ひきこもり」を体験した人の中で、
もうそろそろ、社会とのつながりを
再形成していこうと志したとき、
履歴書の経歴(病歴ではない)を記述する欄に
普通に「◯年間ひきこもりました」と
書いてもはばかれない社会常識が一般化すると、
もう少し生きやすい世の中になるのではないかと
そう感じたりもします。

結局、そのひきこもった数年の間に
自分は何を体験し、何を学び、何を悟り、
それを社会という自分から見て外側にあるところの
社会というものに対して
どのように関わりながら
それをフィードバックする人間たり得たいのか、
そこが問われることになるのでしょうが、
正直なところ、
現状、今の社会にとって
そのようなことを考える人は
必要ない人間ですよね。

だから現代社会は
ひきこもりの問題に関しては
ある種の「現代病」のようなくくりに
放り込んで「困ったね」と腕組みして
常識的な社会人として
傍観者であり続けることしか
できないのだと思います。

ひきこもる人に正面から向き合って
光を与えようとするより、
他人事として根本は棚上げにして
物言わぬ傍観者であることの方が、
社会にとっては楽なのだから。