無迎合主義

ナショナリズムもしかり、
もっと身近な流行に関する事柄でも
同じなのですが、
何に対しても
「迎合しない視野」というものは
持っておいたほうが良いのかもしれません。

それが無迎合主義。

不迎合主義や非迎合主義とは違います。
あくまで、無迎合主義。

迎合するでもなく、
かといってしないでもない、
そういったフラット、ニュートラルな
もの捉え方と言えるでしょうか。

あるいは、
コンサバティブ、リベラルという両極軸の
中間にある「個的な軸」とも言えるでしょう。

往々にして特に流行、トレンドと呼ばれるものは
むしろ迎合しないと
生きていてつまらないという
感じ方もあるのでしょうが、
それでもそこを
あえて「迎合要求」に抗ってみることで
見えてくる世界もあるのだと思うのです。

と言うか、
そこを抗った地平に
無迎合主義という概念があるのです。

無迎合主義は、その思想自体をも否定します。

無迎合主義を唱えながらも、
それに対して迎合するなと
背反するテーゼを持った質の思想とも言えるでしょう。

つまり、そこから何が言えるかというと
そこにある主体は完全に
「己の観念」というところに
その判断の舵を委ねてしまうことであり、
それこそが無迎合主義の本質なのです。

無迎合主義は
集団心理をことごとく否定し、
その集団でさえ解体させる力を持っています。

無迎合主義者が複数人、
同じ意見を述べて
外界にその思想を投げかけた段階で、
それは無迎合主義の定義から外れ、
むしろ無迎合主義にとっての
「解体されるべき標的」となるのです。

無迎合主義の到達点はここにあるのでしょう。

何にも迎合しない。
迎合しないことにもまた迎合しない。
当然、マジョリティになり得ることはありませんが、
マイノリティである強制力さえも否定する思想。

あくまでパーソナリティという
主体を軸にして
コンパスで円を描くように
無迎合主義者は叫ぶのです。

この思想を貫徹するには、
「自分の思うところ」という
ぶれない定点が必要となってきます。

常に主体が「自分」に置かれているかが
問われるのです。

「同意する他者の存在」を基底の部分から
打ち消しているのですから、
この思想の徹底には
常に孤独が付きまとうのです。

しかし、その孤独こそが
「完全なる自分の本質」でもあるはずですし、
そこにはまた、
あらゆる条件付けをされない、丸裸となった
無評価の自分がいるはずです。

その、あるがままの自分の叫びこそが
己の魂の叫びであると言えるでしょう。

他の人がこう言っているから
自分もそうだと思う。
そうではなく、
他の様々な人が同様のことを言っている、
けれど自分は本当はこう考える、
という無迎合の姿勢にこそ、
自分の本心、つまるところの
『一切の条件規定による評価を
拠り所としない本来の自己の姿』
が浮かび上がるのです。

そして、それを認知し
本来の自身の存在を肯定しつつ生きることこそが
本当の人生の在り方であると思うし、
より「自分を生きる」というところに拘るのであれば、
無迎合主義の視点を
持たなければならないのだろうと思います。

サルトルの実存主義を裏返したような
論法ではあるのですが、

『自分が何にも属さないとき、
そこに自分の本質がある』

これが無迎合主義のコンセプトなのでしょう。
意外と実存主義に近接する考えだと思えます。

これを社会に生きる人たち、ひとりひとりが
意識して行動し始めると、
世の中は間違いなく変わります。

けれど、これを一つの運動として
集団が行使することは
無迎合主義に反するのです。

無迎合主義は
それ自体を迎合することに
親和性を持たないのであるから。

ひそかに、ひとりで
もくもくと貫徹しなければならない、
「静寂の中での孤独な戦い」が
そこにはあるのだと思います。

しかも、その「自分の」
静かなる戦いさえも
自分自身に対して
「無迎合」を要求し、
それさえをも打ち消すという
底なしの葛藤を味わう苦しみもあるでしょう。

「迎合」と「無迎合」の
間を揺らぎながら生きる
その「己の視点」こそが
「個的な軸」のことであり、
葛藤という風に揺られた風鈴のように
鳴る音色の響きこそが
魂の叫びなのだろうと思うのです。