なぜ勉強が必要なのか?

今の人間の社会は
近代化していくのと比例して、
人に学力を求めるものです。

確かに学力というものは
その人の能力の「一部」を推し量るための
重要な要素ではあります。
ただし、あくまで本当に一部、一面に過ぎません。

当然、人というのは
社会生活をしていくうえで必要なものとして、
学力以外に社会性や人間性も
同等か、ともすれば学力以上に
要求されます。

多分、元々は
客観的な学力というのは二の次であり、
本来の社会生活の中で
より良く生活していくためには
社会性と人間性を問われていたと思うのです。

ただ、これらの要素というのは
具体的な数値や結果として現れませんし、
複雑に絡まり合う人間関係の中で
それを評価するには
あまりに主観的なものしか得られないのです。

そこで人の能力の判断基準として
学力という絶対的な数値の概念が持ち込まれたのだと思います。

少なくとも日本に於いては、
学力だけが注視されがちな気がします。

勉強というのは
○○学校卒業というステータス、ライセンスを
取得するためのもの、
という性質が往々にして強いように思います。

本来、勉強というものは
そういう性質のものではないはずです。

誰も解く事の出来ない方程式を
解く事が出来る事で、
また非常に難解な文章を読み解く
読解力を持っていたとして、
「それが出来る人」だけで終わっていては
その能力は「死んだ能力」だと思うのです。

本当はその先にあるものこそが
大切なのだと思うのです。

難しい方程式を解いて、
難しい文章を理解して、
そのことによって自分以外の
誰かが救われなければ、
誰かが喜ばなければ、
それは不要な能力なのです。

人間のもたらされた能力は
決して私腹を肥やすためにもたらされたものではないのです。
他者を救うため、癒すため、喜ばせるため、励ますため、
人に与えるものとして
その能力はあるのです。

その能力を獲得するために
勉強があるし、その習得の度合いを計るための
学力があるわけで、
実はそのような「人のために」と考える
志に必ずしも勉強は必要ないし
学力がなくても「人のため」に
何かを成す事が出来るのです。

そもそも、学生時代というのは
この自分ならではの「人のために」は
いったい何なのかを模索するための期間だと思うのです。

そう考えると人によっては
それこそ極端な話、
一般的な勉強している場合ではないという人も
いると思います。

逆説的に辛辣な言い方をするのならば
それこそ、若い時期に
自分ならではの「献身」の意味に気づけないのならば、
社会の歯車、ねじの一つになるしかないので、
それならせめて、
今課せられた勉強を懸命にやった方が良いでしょう。

天命というものが見つかったのなら、
その天命を遂げるための勉強に励んだ方が良いのだと思います。

ただこれは、その天命によっては
社会からのドロップアウトしてしまう人もいるかもしれません。

だからドロップアウトを恐れて
天命を押し隠して生きる人もいるのでしょう。

きっと世の中は
天命を生きる人と、
天命を生きない、あるいは生きられない人の
二通りに分けられると思います。

この両者の分かれ道は
運が良いとか悪いとかそういう
自分の意志の及ばないところにあると
感じる人がほとんどでしょう。

しかし、
天命を生きるか、生きないか、
この振り分けはあくまで
自分自身の意思で決めた事なのです。

決意を行動に移すか、移さないか、
その差があるに過ぎないのです。


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