情熱

情熱というものは
きっと行けるところまで行って
完了し、昇華するものなのだと思うのです。

例えば何か夢を持った時、
それをかなえる原動力となるのが情熱な訳ですが、
その夢が叶う、叶わざるに関わらず
情熱は行き止まりを見ないと
それはいつまでも留まり続け、
ことあるごとに
その結果を迫るのでしょう。

それは何故か。

きっと夢見たそれの結果は
未然のままであるから。

自分の中で結果がでない限り、
その情熱は何度も湧き出る事でしょう。

そういう意味に於いては
おそらく情熱というものは
諦めの悪い質のものなのだと思います。

情熱が残っているうちは
諦められない。
諦めたと思い込んで過ごしても、
一定の結果、見識という答えを見いだせていないうちは
人生で同じようなシチュエーションで
乗り越える壁となってきます。

胸に秘めた情熱は
完全に出し切り、消え去るまで
諦めてはいけないのだと思います。

諦める事ができるのは
それを諦めるという見識を体験するときのみ。
これは能動的諦念とでも言うのかもしれません。
自らが進んで「諦める」と決める事は
その問題に対して一定の認識を得たという事であり、
実はその時点で情熱は昇華されるのです。

対する概念として考えられるのは
受動的諦念と言えるでしょう。

これは文字通り、
外的に「諦める事」を強いられる質もので、
こういう諦念はあとにしこりを残すものなのだと思いますし、
しこりを残さないためにも
諦めず一定の結果を受け入れるところまで
対峙しなければならないのでしょう。

ここで一つ問題になってくるのが、
恋愛などでよく聞く
「ストーカー」の問題。

大抵「ストーカー」というのは
俗に言う振られた人が陥るものだと思いますが、
この場合「ストーカー」というのは
受動的諦念の状況にあると思います。

振られても諦めきれずに云々、と。

この場合の「ストーカー」は
受動的諦念の論理に於いて
その行為が許されるかと言えば、
断じて否である事は明白です。

何故ならこのケースでは
関係の構造上、
もうその恋の結果は出ているのだから。
これは単に結果を受け入れられない
執着があるのみで、
これは間違った行為です。

ならばもっと純粋な夢に関しては
どう解釈すればいいのか。

どこまでが能動的諦念で、
どこからが受動的諦念なのか。
この線引きは非常に難しいと思います。

諦念というものをどう定義するかにもよるのでしょうが、
諦める事とはすなわち、
飽きる事であり、
情熱とは飽きるまで放出されるものである。

こう考えると受動か能動かの
しきい値が見えてくるかもしれません。

人はある一つの物事に飽きてくると、
それに関する様々な状況や、
自分の心情というものが
容易に客観視出来るようになるものです。

祭りのあと、
「あの祭りはこういうものだよね」と、
櫓に立てた人も立てなかった人も
そう言える心境になる時、
その情熱は浮かばれる。

今、焦がれるほどに欲するそれも、
その熱い情熱も
寂しい言い方ではありますが、
飽きるために存在しているのかも知れません。

そうして未然は必然に変わり、
情熱は完了するのだと思うのです。


応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪

にほんブログ村 音楽ブログ シンガーソングライターへ
にほんブログ村


「風は群青の空をそよぐ」
2013年5月25日発売!

・歌詞カード付きCD-ROM(限定)の購入は

コチラ←


夏のカケラ on Radio たまにTVでは
ご紹介するお便りを随時募集しております。
完全匿名制ですので、お気軽にお便りを下さい!


お便りはこちら!