不老長寿は生物の価値を下げる

昨日は再生医療において
まず考えなければいけないことについて
触れましたが、
昨日分の記事を書いた後にふと思いました。

もちろん、人の体の病んだ部分を
新しく培養された若いものに
付け替えることが可能になった時、
それによって得られる人間の
生活の質、つまりQOLは目覚ましく向上するでしょう。

現に僕自身も、
健全な臓器を外で培養して
付け替えてほしい体の部分を持っていますし。

そこは大いに歓迎すべきところではあるのですが、
逆に人間(他の動物でもそうですが)の肉体自体、
可逆性のあるものとなってしまうと
これはこれで倫理的な根本が
揺らぐことになるのではないかと考えます。

具体的に言うなら、
『生命としての肉体の価値が下がる』
この一言に尽きると思います。

分かりやすく極論を言うなら
「腕を切り落としても、また付け替えれば良いんでしょ?」
ものすごく破廉恥な言い方ではありますが、
そんな理屈が理論的に通りかねない事が
肉体、臓器をいくらでも再生出来る事の
怖さであると感じます。

こういう価値観に誘導される
風紀が起こらないとも限らないのです。

肉体というのは生命活動の大前提ですから、
当然肉体の価値が下がるということは、
人としての命の価値も同等に下がることになります。

人間に体の部位が
いくらでも複製出来、付け替え可能になると
今、現状としてある命の尊厳の壁、しきい値を
軽く超えてしまうのです。

例えば非人道的なことをする輩がいたとします。

実にえぐい話ですが、
手足を切り落として
新しい別の四肢を移植し、
また手足を切り落としてという、
聞くだけで胃の痛くなるような
今までではあり得なかった凄惨な拷問が
可能になるのです。

もちろん、このような状況になることは
ありえないし、あり得る世界になったのなら
もうそこは地獄でしょう。
あくまでこれは分かりやすくディフォルメした
たとえ話ではありますが、
肉体が可逆性を持つということは
これほどに倫理の一線を超えさせてしまうものなのですし、
人の体の部位が
その辺の機械の部品と同等に扱われてしまうほどに
価値が落ちることをも意味します。

だから肉体の価値は下げてはならない。

しかしここで賢さが必要なのでしょう。

肉体の価値を維持するために、
肉体に値段を付けてしまっては
これもまた本末転倒というか、
値付けされる肉体自体が
肉体の価値を下げてしまうとでも言うのでしょうか。

分かりやすく言うなら、
指一本切り落としても
お金で買えば元に戻る。
こういう価値観は前述の
腕を切り落としてもという考えと本質は一緒なのです。

もちろん今ここで腎不全を起こしている人がいたとして、
その人がどうしても生きなければならない人だったとして、
1000万円で培養した
新しい健常な腎臓を移植すれば
その命は助かるというシチュエーションに直面した時、
人は肉体の部位に値段を付けて売ろうなどという価値観は
真っ向から反対すると断ることができるでしょうか。

1000万円で正常な腎臓が手に入るのならと
それを買う人を誰も責めることはできません。
何故なら、生きるためにその腎臓が必要なのだから。

肉体は可逆的であれば
本当に病気で苦しむ人は救われるでしょう。
しかし扱う人によっては
肉体は非可逆なものでないと
生命のあり方の根本が脅かされる気がします。
ここが怖いところだと考えます。

この辺りの判断に、
さらに例えば「脳死」の問題などが絡んでくると
もっと複雑な議論が要求されるし、
そのためのガイドラインも
大きく変わることになるでしょう。

体の部位を
コピーして付け替えることができる技術というものは、
国が定めるところの医療体制の問題を
さらに根深くさせるものでもあることは
必ず念頭においておくべきことだと思うのです。


応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪

にほんブログ村 音楽ブログ シンガーソングライターへ
にほんブログ村


「風は群青の空をそよぐ」
2013年5月25日発売!

・歌詞カード付きCD-ROM(限定)の購入は

コチラ←


夏のカケラ on Radio たまにTVでは
ご紹介するお便りを随時募集しております。
完全匿名制ですので、お気軽にお便りを下さい!


お便りはこちら!