心の所在

人間と他の動物との違いは
もちろん、精神の有無だと思います。

精神というのは
高い知能を持たないと現れません。

故に人間以外の動物でも
知能の高いと言われるものは
もしかすると精神が宿っているのかもしれません。

今僕の中で熟考しているテーマでもあるのですが、
それが「精神の所在」についてです。

つまり、
肉体があってそこに精神が発現するのか、
それとも
精神があってそこに肉体が伴っているのか。
という事。

こういう言い方をすると、
まず大抵は
それはもちろん、
肉体が機能しない「死」の状態になれば
そこに精神は現れないから、
肉体は精神に先立つものだろうと、
ともすれば嗤うかもしれません。

しかしこの考え方というのは
実のところ非常に一元的な考え方で、
絶対的に肉体が精神に先立つ論拠は
意外と脆かったりします。

精神活動を可能とするだけの
身体機能(主に脳になるのでしょうが)を
有するのが人間であるのなら、
精神活動が何らかの障害によって
ままならない状態になった人間は
人間ではないのでしょうか。

例えば脳死という状態は
明らかに肉体と精神、どちらが先立つのかを
問われる事案ですし、
脳死という極端なシチュエーションではなくても、
意識不明の状態あった時、
それも例えば長期にわたっての意識不明の状態にあった時、
この精神活動の兆候が失われた肉体は
人間ではないのだと、その存在を
簡単に否定する事が出来るのでしょうか。

こと精神を有している人間の場合、
というか精神という現象を有しているが故に、
何かを思う事が出来る状態と
何も思う事が出来ない状態との間には
超えられない概念の壁があります。

自律的な肉体機能を有しても
精神を伴わない、つまり何も思わない生物を
ヒトはそれを「動物」と呼び、
人類と区別しています。

ならば、特に非可逆的に
脳死の問題や意識の喪失状態にある人間も
人間にあらず、と断じる事が出来るでしょうか。

また自分を自己認知出来ないという点に於いては、
もしかすると重度の認知症を患う人の存在意義すら
問うてくる問題でもあったりします。

もちろんそれは
生物学的、医学的な問題だけではなく、
倫理的な問題へのアプローチを迫るものでもあるし、
また個々人の感情論という問題も発生してきます。

こう考えると明らかに杓子定規に、
肉体は精神の先立つものであるとは
言い切れないのです。

ついでに言うなら、
実生活でもドラマなどのフィクションでもそうですが、
死者の墓前に語りかけるというシーンがよくあります。
このシーンは要するに
肉体を持たない個人に向けて
今、生存している精神、肉体が
コミュニケーションを試みる行為な訳ですが、
この例などは
精神が肉体に先立つ存在、概念であるどころか、
それを超えて
肉体という概念の入り込む余地のない
精神対精神という構造を持つ状況になります。

こうなってくると
人間の本質、つまり「命の所在」が
どこにあるのか分からなくなってくるし、
今一度丁寧に熟考するべきテーマなのだと思うのです。

もちろん、この問いに
簡単に答えは出ないでしょうし、
自分一人で導き出されるようなものでもないのだと思います。

精神はどこにあるのか。
肉体か、精神か、
どちらが命の本質なのか。

心とはいったい何物なのか。
肉体が機能している結果なのか。
それとも自発的、自律的に
もの思う事の出来る今、この文章を読んでいる
それなのか。

僕にとって、この問題は
生きている間に
ある一定の答えは導き出さなければいけないものであろうと、
そう思うのです。


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