病んでもなお素晴らしき哉

以前、いつか科学、医療の技術で
自分の細胞を元に
臓器を製造できるようになる日が来た時の
その功罪について考えた事を書いた事がありました。

最近よく聞くiPS細胞とか
有るのか無いのかよくわからない例のやつとか
いろいろ、あれの事です。

以前の記事では、
結論だけを言うなら要は
いくらでも人体の臓器を作って
機械の部品のようにそれが付け替えられるようになると、
生物としての人間の価値が下がるけど
その辺は大丈夫なのですか?
そんな事を言いました。

実は上述の観点というのは
ちょっと片手落ちな部分があります。

身体のどこかが悪いからと言って
簡単に「臓器の良品」を作って
取り替えられるようになると、
人は自分の身体を大事にしなくなる。
この視点は結局、
健常な人の世界観から導き出される倫理なのだと思います。

実際に身体の一部を失ったり、
機能不全に陥っていたりして
実際に生活に不便、不利益を強いられている人からすれば、
そんな健常な人の倫理というのは
否定する権利があります。
それで生物としての肉体の価値が下がろうが、
今抱えるこの苦痛は取り除かれるべきです。

たとえ自分は健康な肉体を持っていたとしても、
自分の子供が何かしらの機能不全を抱える
肉体を持ってしまっていたとしたらどうでしょう。

臓器の複製は肉体の価値を下げるなどという理屈は
ただの綺麗事に過ぎないと考えても、
それは一切責められるものではないでしょう。

ただ、こうした
相反する極論が前提として存在する以上、
やがて訪れるかも知れない「臓器の部品化」の時代を前に、
どこまでが是で、どこからが非なのかという
枠組み、線引きは大いに議論されるべきだと思います。

そしておそらく、
人この事についての是非の境界を定めようとしても、
人間はその答えを延々と出せないまま、
技術だけが先んじてしまうような気がします。

人それぞれ、価値観、倫理観というものは違いますから、
この線引きについての議論に結論が出ないのは
当たり前だと思います。
でも、いつかは結論を出さざるを得ません。
ただ必ずこのガイドラインは
技術の進歩の後手に回ります。

だから故に研究者は
その複製、製造した臓器というのは
人を救うためにあるのか、
また肉体の価値を下げるものとなるのか、
そうした葛藤を常に抱えて
研究をやって欲しいと思います。

僕自身、腸に持病を抱えていおり、
事実、腸を切除する手術を3回も受けているという
身の上的にはきっと、
今回述べた後者の論理、つまり
それで生活の質が上がるのなら、
自分の腸を良品に交換して欲しいと
思っても良い立場なのかなと思います。

でも最近は、そんな病んだ身体もまた
自分の身体の一部であり、特性であるのだから、
これはこれで肯定して付き合っていかなくてはならない、
そのように考えるようになりました。

今、健康な腸管に付け替える事が出来たら、
多分自分は不摂生になるだろう。
臓器がいくら傷ついても、
取り替えて治せるのだから。
それはすなわち、自分の身体の価値を下げた事になるわけで、
それはそれで僕自身、
今更それを是と出来るかと考えるのです。

しかし、医療としては
克服すべき症例でもあります。

この辺りのバランスを
誰もが高い意識から俯瞰して
考えるのは無理でしょう。

まして、昨日まで健康だった人が
ある日突然、
あなた難病です。もう一生治りません。
そう宣告されて、その場で
病んでもまた自分の肉体だよねと
達観できる人なんて間違いなくいません。

身体の悪い部分を付け替える術があるのに、
そこでいやちょっと待てよと、
生物としての肉体を保有する意味とはと
哲学できる人などいる筈がありません。

しかし、ここで倫理としての素地を
育んでおかないと、
本当に肉体はただの部品となってしまいます。
そして命は安くなるし、
値段もつきます。

おそらく今のままでは
そういう方向に行ってしまう事は明白ですから、
それだけに本当に
考えた方が良いと思います。


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