騙されるのもまんざら悪くない

月並みな言い方かもしれませんが、
それでもやはり
人や物、もしくはあらゆる事柄について
それを信じるという事は、
結局は自分を信じる事であり、
その信じる深さを常に自問するようなものなのだと
思うのです。

例えば、
この人は信じられる人か。
そう判断を迫られる時というのは
最終的に
「その人は信じられる人」である事より、
「自分はその人を信じられるのか」で
その判断は決まるのでしょう。

つまり、その人が
「信じられるか」という判断に先立つものとして
「自分は信じるか」という問いを
その判断の根本に有しているという事。

確かにこれはともすれば、
仮に騙されたとして
その立場をして
「信じるお前が悪い」
という論理に向かう考え方でもあります。

確かに騙されたとすれば
信じた自分が悪いのかもしれません。
しかし、もちろん
明らかに騙される事によって
何かしらの一切無益な損害、ダメージを
被るのであれば、それはそれで
また別の哲学の応用が必要となってくるのでしょうが、
ごく健常かつ一般的な日常生活における人間関係において
「信じた自分(お前)が悪い」という論理は
必ずしも当てはまるものではないのだと思います。

むしろごく日常的な生活、人間関係の中に於いては
「自分は信じる。それで良い」という
結論に帰結してしまった方が
日常生活の様々な事が円滑になり、
また抱えなくてもいいストレスからも
解放されるように思えます。

信心とは相対的に比較するような質の概念ではありません。

絶対的な自己規定を信心と呼ぶし、
そこに相対性の軸を持ってしまうと
とたんに疑わしいものとなったり、
ともすればそれが仇ともなるのだと思います。

そういう観点から見れば実は、
「信じた自分が悪い」という結論も
結局は
「信じた自分が悪かった」と
規定し信じた事の結果論だったりするのです。

騙した相手であったり、
騙された自分であったり、
その事象の当事者の誰かを悪者にしてしまうのなら
それがいちばん手っ取り早いし、
深く考えなくて済みます。

誰かがスケープゴートとして悪者になれば、
一切の否定をその悪者に括り付けて
「悪」の断じてしまえるからです。

しかし本当はそうではありません。

何が起きてもそれは
自分の信じた通りの結果であるし、
にわかにそうは信じられない事ですら
結局は認知し、納得し、信じるものへと帰結します。

前述したように
確かにそれによって実際の被害が出るシチュエーションでは
これはまた違う論理で案じなければならない問題ではあります。

あくまでごく日常、まったくの無害な状況での
自己認知の観点から見てそれは、
「信じた自分が悪い」のではなく、
「騙される自分でも良い」と考える方が
よりストレスのない生き方ができるのではないか
という事。

簡単に言えば
信じて損をする不安をいつも抱えているより、
騙されてもいいからと開き直って
希望を持って生きる方が遥かに
心に取っては健康な生き方なのだと思います。

おそらく、
実際に信じて実害が出るような結果に至るケースは
信じたら損をするという論理から導きだされるものであり、
結局はある種の自己否定が
物理的な実害を負うほどまでにこじれた事によって
起こるのだと思うのです。

人というものは
それが仮に「騙された」とはじめから思って
開き直った時、その心が最も開くのだと思います。

何故なら「騙される事」さえも許容してしまうのですから。

自分を信じる事の本質は
ここにあるような気がします。

そう。
一つ高い視点から見れば
騙される事は何もないのです。

すべては想定内の出来事なのですから。


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