天才と馬鹿の溝

よく言われる言葉。

「天才と馬鹿は紙一重」

僕の経験上、これは事実ではないと感じます。

僕がこれまで生きてきて、
いろいろな人と出会い、接してきて思うのは
つくづく、
天才と馬鹿は天と地ほどの差があるのだと感じます。

上述の「天才と馬鹿は紙一重」と
感じるのは、天才と馬鹿の
真贋の区別がつかないか、
あるいは本当の天才や
本物の馬鹿を見た事のない人なのだと思います。

ただの馬鹿は、
運良くまぐれで何かを掴む事はあっても
それが続きません。

それに比べて本物の天才は
物事の本質を良く理解しているから、
常に「正解」を知っているように思います。

故にこの両者は天と地ほどの差があるし、
ましてそれらが紙一重であるという論拠は
成り立たないのだと思います。

手厳しく言うなら、
「天才と馬鹿は紙一重」と言える人間は
自分が馬鹿である事への否定という欺瞞に対する
エクスキューズであるのだと思います。

天才特有の素因を持たない事を隠すために
放埒に振る舞って
「天才と馬鹿は〜」と言っているに過ぎないのだと思うのです。

つまり、
天才イコール馬鹿である時、
馬鹿であるなら天才である。

実はこれが最も一般的に陥りやすい
愚かしい人間の振る舞いだったりします。

これはもちろん違います。

似た表現を使うなら、
天才は馬鹿の本質を知っている。
だから馬鹿の振りができる。
と言えるのでしょう。

とまあ、難しいことを言いましたが
もっと簡単に言えば
僕の実体験として事実、
本当に凄い人は
普段は至って普通です。
ものすごく普通ですが、
ひとたびその専門の能力を求められた時、
尋常ではない力を見せつけます。

逆に普段から
自分は切れ者をアピールしている人は
実際にやらせてみると
全然対した事がなかったり。

普通の人の感性と
ずれたところにいる人と、
ずれた場所を知っている人では
それほどまで雲泥の差があるのです。

そして僕が「この人、凄いな」という人は
得てして本人も意識はせずとも
明らかに凡人に比べて
様々な物事の入力、処理、出力という
プロセスの流れが速くて膨大です。

凡人がかぶいている時間も
そうしたプロセスに費やすので、
凡人から見ればそれは
努力しているように見えるかもしれません。

それはそれで間違ってはいないのでしょうが、
本人はおそらくそれを努力と思わず、
楽しんでやっていたりしています。

なかなか表立って目に見えてこないし、
ともすればほんの些細な事だったりもします。
しかしここが
天才と馬鹿の分かれ道なのでしょう。


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