三昧

「三昧(ざんまい)」という言葉があります。

贅沢三昧とかいうあれです。

日常では食べ物屋さんなどで
ランチや定食などで
「○○三昧」という名前のついたメニューとして
よく見る言葉でもあります。

これは元々は仏教用語で、
そうしたルーツからも想像がつくと思いますが、
インド、サンスクリット語(だと思う)の
「サマディ」という言葉が日本語化したものです。

一般的に「三昧」といえば
「特定の何か、それだけをやり尽くす」
という意味で使われると思うのですが、
実際に仏教の示唆する「三昧」というのは
実に難しい概念であったりします。

ちょっとネットで調べて
解説を読んでも、
難しくて分かり難いなと感じました。
僕は無学でよく分からないのですが、
きっと「三昧」の意味を
体系的に理解するためには、
その前提となる様々な知識が
ベースにないと
一体何を言っているのかすら
分からないと思います。

ただいろいろと読んで、
僕なりに理解してみるなら(正しいかは別)
どうも三昧、つまりサマディという状態と言うのは、
意識を自我の外側まで拡張して、
客観視した自我を
例えば不要な思い込みや執着を捨てるなどして、
フラットに再調整するために必要な
境地である、
その様に僕は理解しました。

以前、僕が今回のアルバムの
レコーディングをしていた時期、
ギターなどの録音は
それこそもう指に力が入らなくなって
ギターが弾けなくなるまで
弾き続けました。

それは単なる演奏に集中するという
ステージを超えていました。
完全に「僕」という自我はそこから消えていました。
あの時僕は「音楽」でした。
「音楽」以外の何ものでもありませんでした。

ひたすらに「音楽」であり、
またそれは「宇宙の全てがここ在る」という
完全なる一体感がそこに在りました。
宇宙の中心は、今ここ
自分の精神の中心と同じである事を
明らかに体感した時間でした。

これは僕が「音楽の演奏」を通して
体得したものですが、
全神経を集中して
自我を超えたステージへ
精神を高めていく技術。
これが仏教で言うところの
サマディ(三昧)に近いかななんて感じています。

一度この境地に達すると
必要に応じていつでも
とは言ってもまあ、
僕の現実では音楽を演奏する時以外に
その境地へ行く必要性はあまり無いのですが、
それでもやはり
このサマディ(かも?)という境地に
割と簡単に達する事が出来たりするものです。

そこで個人的に思ったのは、
「苦」を感じるのは「自我」であるという事。

仏教で言われるところの
サマディに似たような
集中力の極限を超えた境地には
本当に「苦」はないです。

そこにあるのは
「ある特定の状態にある宇宙」
そのもの、ただそれだけ。

もちろん、僕が演奏を通して
体得した極限を超えた集中というものが
果たしてサマディの状態なのかは知りません。
故に、サマディについても
僕は知らないのかもしれません。

しかし、その境地へ入ると
知っていようが知るまいが、
そういうものも
小さな自我の枠の中での認知に過ぎない
という事だけは分かります。
知らないかもしれないし、知っているかもしれない。
その答えは
永続する今この瞬間に
全てがそこに在るので、
わざわざそれに執着する必要が無くなる。

確かにそうした境地があるのだとは思います。

この境地で音楽を奏でる術を覚えると、
音楽は音楽以上に面白くなり、深くなり、
やがて音楽を越えた音楽の存在に
辿り着くのだと思っています。

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