贖罪に信仰は要らない

先週、我が家ではお盆でした。
うちのお盆は7月です。

さて、日本で言うところのお盆と言うのは
仏教はもとより、日本由来の風習、
日本で醸成された宗教観、
果てはゾロアスター教の風習などが混ざり合った、
日本独特の宗教行事です。

その元となるエピソードは
その昔、お釈迦様の弟子の母親が
地獄に落ちて、子である弟子が
救おうにも救えず困ってお釈迦様に
何とかならないものか、と相談した事からはじまります。

お釈迦様が言うには、
地獄に堕ちた業の深さは
いくら信仰が厚くても救えない。
仏教の修行僧が修行を終えた頃(7月15日頃)に
お坊さんみんなで、地獄に堕ちた人
全てが救われるよう供養すれば、
そのうち地獄から救われる人の中に
あなた(弟子)もいるかもしれない。

このエピソードがお盆のルーツと言われているそうです。
上記の話に多少誤差はあるかもしれませんが、
まあ、大筋はそのようなものと理解して頂くとして、
今日のポイントは先のお釈迦様の言葉にあります。

「いくら信仰が厚くても、業の深さは救えない」
この言葉は非常に示唆に富んでいると思います。

人の倫理と宗教観とは密接な関係はあるものの、
この両者は根本の部分では何も繋がってはいない。

特にキリスト教では顕著かと思われますが、
信仰の実践によって贖罪が成立するという考えは
いささか違うのではないでしょうか。

信仰がとは業を作らない為の規範であって、
それでもなお犯してしまった業を償うのは
誰でもなく自分なのです。

誰かがその業の肩代わりをしてくれる事など無いし、
まして信仰に自らの罪を押し付けてしまうのは、
信仰のコンセプトを構築した善き想家への
冒涜に繋がるとさえ言ってもいい。

しかし、お釈迦様が説いた
そうした思想が原典として伝えられる仏教、
この場合、日本の特有のそれと捉えて頂いてもいいのですが、
結局それらもまた、
「迷う祖先」という業の存在を示唆する事で
贖罪を信仰という形で償わせようとするのは、
最初の原典であるところの
お釈迦様の考えるコンセプトから
遠ざかってしまっているように思えるのです。

結局、自分の罪を償うのも、
また苦から抜け出すのも、
全て自分の意思がなければ
始まるものも始まらないと思うのです。

あえてそこに神という概念を重ねて言うのであれば、
己を助けようと決意した心にこそ
神は発動する。

もう苦しまないと決心した、その時に
神は現れる。

もうそこに、外的な既成の信仰の概念はありません。

教義を超えた、
自分と、それに相対する神の
二者しか存在しない。

そしてその相対した神は問うのです。

自分を救えるのは自分だけだと。

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