音楽に自分は要らない

今、ライブに向けて練習とリハーサルを
頑張って行なっています。

以前も少し触れましたが、
今月の12日にライブです。
新生「鮎沢郁弥」のお披露目です、こっそりと・・・(笑)
というか、当日の詳細について
まだライブハウスさんの方からの
情報がきていないので、
きちんと告知が出来なかったり・・・。

ライブハウスさんの方にも
「お客さんは一人も呼べない事を
承知してください」
とあらかじめ断ってあるので、
色々段取りが後回しになってたりするのかも・・・?(笑)

それはさておき、
リハーサルを重ねていくにつれ、
自分がライブで何を表現したいのかという事を
真摯に考えるようになりました。
今更かよ、という話ではあるのですが
それでもようやく
人に観せる事、聴かせる事について
真摯に向き合うようになってきたと感じます。

大昔にバンドをやっていた頃や、
精神が病んでいた頃に
「ライブをする意義」もないまま
ライブをやっていたりしましたが、
自分を顕示、誇示しようという気持ちが
大き過ぎたように思えます。

確かに自分を誇示するという衝動は
ライブをする為のごく初期の衝動ではあります。
しかし、この衝動だけでライブに臨んでも
いつかは必ず行き止まりが来る事に気付きました。

自分を誇示しようとすると
どうしてもそこに
イメージと現実のギャップが
生まれるからです。

とりわけ何より
質の良い演奏、音楽を
人様に触れてもらおうとするのなら、
むしろそうした
誇示するような「自分」は不要であると悟りました。

今、リハーサルでもやっている事ですが
とにかく「自分を消す」この一点に
もの凄くこだわっています。

僕の奏でる音楽に、僕がいるのは
非常に邪魔になる。

ならば、ステージに上がらずに
せっかく作った音源でも流しとけよ
と言われかねませんが、
そういう次元の話ではありません。

要するに僕は
ステージ上で「僕」を表現するのではなく
「音楽そのもの」になりきる必要がある
という事。

「音楽そのもの」になれる時、
その空気は会場全体を包む事が出来ると
確信しています。

むしろ「自分」などという
小さな器の中で音楽をやっていては、
音楽が小さくまとまってしまうし、
何より僕が表現しようとする音楽が
歪曲されてしまう。

僕が届けるのは音楽。
イメージとしては
もの凄く高く、明るいところにある音楽。

僕はただそれを再生する装置に過ぎない。

そこに「自分」を出そうとする事は
発せられる音楽を遮るようなものだと思うのです。

ライブ本番の時、
ステージに「鮎沢郁弥」はいない。
間違いなくそこに
ただ「純然たる音楽」が
存在していた。

観る人がそう感じた時、
それが僕にとっての
「成功したライブ」なのかもしれません。

ただ、
言葉で言うのは易しいのですが
それを実践するとなるとなかなか難しいのだとも
痛感しています。

ミュージシャンに限らず
パフォーマーというのは
「純然たるそれ」をそこに発する為に、
常に精進を怠らないのだと
この歳になってようやく学ぶ事が出来ました。
20年遅いのだけれど・・・(笑)

もっとも、若気の至りが
「不真面目なパフォーマンス」をさせた
その結果として、結局後悔だけが残ったという
失敗を知っているから、
今度こそは何に対しても
真摯に、誠実に、完璧に
しかも自分の出来うる限り
最高の仕事をする事にこだわる重要性を
理解出来たというのが本当のところかもしれません。

人から「お金」を取る
パフォーマンスであれば
なおの事一切の手は抜けない。

バンドをやっていた若い頃に
それを悟っていれば
また僕の人生はまた
違ったのものになったのかもしれません。

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