ボヘミアン・ラプソディー

昨日、ちょっと悪魔について触れたので
その繋がりのお話をしようかと。
ざっとネットで調べると
昨日の話の
映画「エクソシスト」に出てくるところの、
いわゆるキリスト教で定義されるところの
「悪魔」とは
元は天使であったのに堕落した、いわゆる
堕天使の事とも言われており、
この定義自体が
人の精神の構造のメタファーとして
実に上手く喩えた話だと思うのです。
神、つまりそれは
正義、調和、創造性、美などのような
ポジティブなイメージのものの
ディテールを明確にするべく弁証するために、
その対となる概念として
「創造性から」創り出された
アイコン、それが悪魔なわけです。
キリスト教において
そしてその「調和しないもの」は
悪魔であるという思想は、
土着の信仰の対象であった神すらも
悪魔にしてしまった事実もあるようです。
クイーンの超名曲
「ボヘミアン・ラプソディー」の
歌詞の中の一節に
” Beelzebub has a devil put aside for me ”
(Beelzebubが僕を悪魔憑きにした)
という言葉がありますが、
このBeelzebubも実は
元々、土着の信仰の対象だったそうです。
さらにキリスト教は
キリストを信仰しない者は
悪魔に囚われている者だとする
思想へと発展していきます。
結局、右か左か、裏か表かの話で
少数民族の間で信仰されて
穏やかに過ごしていた神からすれば、
キリスト教こそ
信仰を蹂躙する邪教であると言える権利もあるでしょう。
特定の神様に対する帰依の薄い
日本人の感覚からすれば、
むしろそれが悪魔のように心を捕らえているものこそ
キリスト教なのではないかと訝しくも思えます。
もちろんこれはキリスト教に限った事ではなく、
行き過ぎた信仰全てに言える事だと思います。
何にしろ、
調和のモチーフを明確にするために
相対的に生みだされた
「悪魔」という概念をアイコン化して、
良俗に反するもの、美徳に反するものなど
ネガティブなもの全てを
悪魔というアイコンに放り込んでしまった事で、
逆に「悪」の概念も明確になってしまったのは
皮肉な話です。
人は神を崇め続ける限り
悪魔の囁きの声を聞き続ける事となったのです。
神のあるところ、
必ず悪魔もそこにいる。
悪魔から逃れる術はあるのか。
それは簡単な話。
神を捨てれば
悪魔による呪縛からも解き放たれるのです。
昨日も触れましたが、
神が概念であるならば
悪魔も概念に過ぎないわけで、
その二元性の対立構造の外側に出れば
そうした信仰が
いかに小さい信仰であるものかと
思えてくると感じるのですが。
まして、
自らが信仰する神の名のもとに
これまでどれだけの人が死んだのかと思うと、
実体を持つ神こそ
悪魔がその姿に化けて
人を欺いているのではないかとさえ思えます。
人を悪魔憑きにさせるのは
誰でもない、人なのでしょう。

↑クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」
この訳詞を読むと
悪魔という存在の核となるものは
人の心の中の
「やましい部分」
なのかも知れないと思ったり・・・。
そして、キリスト教によって
邪教の神とされた悪魔こそ
ボヘミアンなのだろうなとも。
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