「お経」について

タモリ倶楽部。
ほとんどTVを見ない僕ですが、
数少ないよく見る番組の一つです。
この番組、
「○○って良いよね~♪」
というスタンスでひたすら
その回ごとに取り上げられるテーマを
ひたすら「愛でる」、「楽しむ」という、
愛のある雰囲気が好きです。
番組中、誰に対しても
何に対しても罪を作らない姿勢がいいですね。
名古屋の場合、本放送から
およそ1ヶ月遅れで放送されているみたいですが、
先日やっていたネタが非常に
興味深かったです。
「お経ヒットランキング」とか
たしかそんなようなネタで、
今もっともあげられているお経は何かを
ランキング形式で紹介し、
実際にそのお経を鑑賞するという
実にシュールな企画(笑)
番組中に数人のお坊さんが出ていて
その中のお坊さんの1人が
ちらっと言っていたのですが、
結局のところお経というのは
人生辛い事もあるけれど
その辛い事柄に振り回され
翻弄されるなら、
ここはちょっと落ち着いて座って、
先人の残した生きるための知恵について
考えてみようぜ。
これがお経をあげる事の意味なんだよ、みたいな事を
言っていました。
お坊さんという職業にみる性質から
僕のごく個人的なイメージで考えた時、
お経というものは
死者を成仏させるための念仏、呪文のようなもので、
それを唱えることが出来る私たち(つまりお坊さん)に
お金を払ってお経(念仏)を唱えさせなさい的な
解釈やスタンスが
お坊さんの中で
常態化していると思っていただけに、
ちょっと意外でもあり
また同時に少し安心したりもしました。
そうなんですよね。
実際、その先日の番組で
聞かせていたお経の内容を解釈しても
そうなのですが、
お経というものは
特にお年寄りが思っているようなイメージ、
例えばそれを唱えていれば、
もしくはそれを写経すれば
死後、極楽浄土に行く事が出来るという、
それを実行した事で発動し、付与される
天国への直行パスというようなものではないんですよね。
お年寄りというものは
こういう言い方をすると
ちょっと不謹慎かもしれませんが、
自身の死期を認識、想定するにあたって
そうした「呪術的な意味付けがなされたお経」に
帰依してしまう傾向が
少なからずあるように思われます。
その動向はまるで
夏休みの期間中に
計画的にやらなければならない課題をさぼって
夏休みが終わるギリギリになって
ようやくはじめて
勉強すべき事柄に
むりやり大急ぎで取り組み、
機械的に詰め込んでいる、
そんな様相に似ていると思います。
人生、70年80年と生きてきて
何を今さら。
人生、生きるという事を
学び、意識する機会など
それだけ長く生きていれば
いくらでもあったでしょうに、
そう思うのです。
と、まあ
前置きが長くなってしまいましたが、
では実際のところ
お経で語られている事は何か?
その内容は実際、
ずばり「哲学」なんです。
例えばお釈迦様や高名なお坊さんなどが
ひらめき、悟った
「こういうものの見方をするようになって
人生に於ける苦悩を克服する事が出来たのさ!」
といういわゆる生きていくうえでの
知恵、英知、ノウハウですよね。
そんなものたちを文章化したものが
お経なんですよ。
だからお経なんていうものは
仏壇の前や墓前で復唱したからと言って
誰が救われる事もないのです。
大事なのはそのお経を読む人や聞く人が
いかにそのお経の意味を深く理解出来ているか、
その一点に尽きるのだと思うのです。
逆に言えば、
どんなに有り難い教典であっても
それを理解もせずにただ復唱するだけでは、
もしくは
一切の洞察を放棄して
そのお経を何百回、何千回聞こうが、
お経の持つ機能を全く果たせないという事。
お経という教義のコンセプト自体、
それを読み聞きする者に
新たな洞察を与え、示唆を生む事を
誘導しているようにさえ思えます。
にも拘らず
これは僕が以前から言っている事ではありますが、
こうした善き知恵も
時間、時代を重ねる事によって
メソッド化され、それを強いるようになる事で
宗教、教義になってしまうのですよね。
つまり、
個人的内的世界において
その発現が期待されるべき英知から、
一定多数が共有する外的世界の
共通認識として
その意識や概念を
拘束するものに変質してしまうという事。
流動性のある浮き世を生きる人にとって、
生きるためのノウハウに
不動の普遍性を見いだそうとする事は
悲しい性なのか、
そこが哲学というものの
悲しい帰結点です。
それが答えであると
観念を固定化してしまったところで、
実のところそれは
「私」という個人が体験した
ただの幻に過ぎないというのに。
生きる事の答えや意味と言ったものは、
ごく個人的な内的世界の
「現時点」に於ける
数ある認識の中にある
一過性の「ひとつの」
認識の一例に過ぎないというのに。
またさらには、
概念が固定され
独り立ちし、強制力を持ってしまった
宗教のように、
自己の外側に
自らの精神の拠り所を置いてしまう、
ないし置く事を強いるのは、
教典に書かれている内容からして
矛盾する事であったり
本末転倒な事であったりするのだろうと思います。
神様がいたり、
ましてやその神様が
苦難の多い人生に於いて
救いの手を差し伸べるなどという事は
決して無いと思います。
結局のところ、
自身を救済出来るのは
自身以外に他ならないのです。
神による救済などというものは
自分自身を自分自身で
救う事を放棄した人たちが生みだした
幻想なのでしょう。
幻ではない真実としての哲学、
つまり真の教典とは
自分の心の中にあるものなのではないでしょうか。
いくら高尚な教義も
自身の心に於いて実践しなければ
それはいつまで経っても
人の描いた餅のままなのです。
先人はそのことを
後世の人たちに向けて
純粋かつ切に投げかけているというのに、
当の後世の人間である
世の人というものは、
その「哲学」であったはずの教えを
なにやら呪術的なものとして
捉え、取り扱ってしまっているところに、
なんというか
一般的な意味に於いての人間の
愚かしさが見えてしまっているように
思えてなりません。
この世の真理、人生の意味というものが
今、目の前に
具体的に提示されているというのに、
その呼びかけや本質には目もくれず、
またその上辺すらも理解しようとせず、
ここを突かれればあっちに転がり、
そこを押されればこっちに傾き、と
人生を盲目的に右往左往しながら
迷っている人のあまりに多き事かな、
そんな事を考えてしまいます。
理解出来ない人のために
諭した教典であるはずなのに、
正にそれが必要な人には届かない。
お経には
そんな悲しい矛盾が見て取れます。