ニーチェの矛盾

ニーチェの「ツァラトゥストラ~」を
読んでいて、ある事に気がつきました。
ニーチェはこの著の主人公、ツァラトゥストラに
代弁させる形でこう言います。
既存の思想、倫理等に制約される事なく
より自由たれ、と。
より自律的な人生を歩め、と。
確かにそれは分かるのですが、
それを切々と、そして長々と
事細かに細分化してそれを説くのは
逆にそうした自由な人、つまり
「超人」を強いる事となり、
より詳しく語れば語るほどに
それは新たな教義となって
読者を縛るんですよね。
例えばこの「ツァラトゥストラ~」では
主にキリスト教的倫理観だったりするのですが、
それを取り払って
ニーチェの思想という冠に挿げ替えて
「さあ、超人たれ」と言っているにすぎないのですよね。
ニーチェが真に言いたい事であろう
既存の倫理からの脱却など
人をして本当にあり得るのでしょうか。
人はその行動に於いて必ず何かしらの
「規範」が必要です。
それは経験に基づくケーススタディと
言い換えても良いかもしれません。
倫理にせよ、思想にせよ、規範にせよ、
また美徳も悪徳も、これらは
経験によるケーススタディが
ある特定の集団の中で周知された
事柄なのですが、
結局のところ人は
経験の蓄積のディテールによって新たな
行動を選択せざるを得ないという性質上、
そのようなケーススタディから脱却しろというのは
困難であるし、また
それを推奨してしまっては
それが新たなケーススタディとなってしまう
という事なんです。
まあ、早い話が
自分の人生、何はなくとも人任せにせず
自分の思うように生きていけ。
ただ悪い事をしても当然、その報いは
自分自身で甘受すべきだぞ。
そういう事なんでしょうね。