永劫回帰からの脱却

以前も言った事がありますが、
幸せと不幸せは表裏一体、向かい合わせのものであり、
どちらか片方を見れば
もう片方も見えてくるものなんですよね。
だから、幸せを求める事は
実のところ
不幸せから逃げている状態であるのかもしれません。
幸せでありたいと願えば願うほど、
そこに向かうために
自分に持ち合わせていない何かが
目について見えてくるものです。
そもそも、真に幸せであるのなら
幸せである事をもう望む必要がないわけです。
幸せでありたいと考えている時点で
その状態は満たされてはおらず、
まさにそれは
影から明かりを見ているようなものなのですよね。
つまり、それらの事から何が言えるのか。
幸せだったり、その後ろから付いてくる
不幸せだったりだとか、
物の考え方が
そうした二元論で留まっているうちは、
たとえ今が良い状況にあったとしても
いつか必ずバランスを崩してしまうものです。
人が真の安寧を得るには
その二元論を超越し、さらに統合された
絶対的な肯定の中に心を置かなくてはならないのです。
要するに
幸せな事も不幸せな事も
単に一つの事象として
完全に受け入れるという事。
この世で起こる何もかも、
それ自体に善悪、良し悪しはありません。
それらの事象に意味付けをするのは
あくまで自分の心。
故に
眼前で展開する事象の一部となり、
その事象と自分自身を統合して
「在る」ことによって
絶対的な肯定を得る事が出来ます。
そこには
大きな幸せはないのかもしれません。
しかし大きな不幸もありません。
ただ外的世界と内的世界が
完全に同期することで得られる
大いなる安定がそこにはあります。
もしかするとそれは
人の業という永劫回帰の輪から
抜け出す事なのかも知れません。
しかしながら
その業の輪から抜け出すには
永遠と思えるほどの
幸せと不幸せの間を揺られ続けなければならず、
二極の統合を成し得る事自体が
非常に困難なものなのです。
人が一生を生きている間に
その統合が出来る人がいるか、いないか、
それほどに困難な事なのでしょう。