シンクロニシティ

シンクロニシティ。
これは心理学者ユングが提唱した概念。
日本では「共時性」などという言葉に訳されています。
何かしらの意味を持つ偶然の一致、
というような意味でしょうか。
ネットで調べていくと
どうもこの言葉はスピリチュアルとか
そっち系の分野でよく使われるようですが、
僕的には
バンド「ポリス」のアルバムの名前という
イメージが先にきます(笑)
まあそれはさておき、
ここ最近
自動車が暴走して多くの通行人を巻き込む
事故が起きて・・・、
というようなニュースをやたら
目にしたり耳にしたりしませんか?
例えば通り魔とか強盗などの
犯罪であれば
そうした報道に触発された人が
連鎖的に同じような事件を起こしてしまう、
そうした心理が働くということはあるでしょう。
それは分かります。
でも、
交通事故のような
当事者の意志だけでは起こりえないような
事象も結構、連鎖的に起こりますよね。
例えば原発のトラブルもそう。
福島の一件以降、
世界中で原発に何かしらのトラブルが起こった
という話をよく聞くようになりました。
もしかしたら
僕たちが一般的、常識的に
通念として考えている
外的世界における事象というものは、
実はその水面下で
まだ僕たちが認識していない
何かしらの力学が存在しているのかもしれません。
例えば多発する自動車の暴走事故で言うなら、
本当はそれらの事象の根っこの部分は
同一のものなのかも知れないという事。
暴走事故という事象の雛形のようなものが
外的世界の
人が認知出来ない場所に存在し、
それを
各個の内的意識を共有するグループが
それぞれ個別に
その外的事象を体験しているのではないか
という事。
分かりやすく言うなら
同じ映画を
東京の映画館で観る人、
大阪の映画館で観る人、
自宅のDVDで観る人、
それぞれ各々が
ごく個人的な環境下において
その個人的なタイミングにおいて
同じ作品を鑑賞しているという
イメージでしょうか。
そう考えるともしかしたら、
外的現実というものは
人の中の内的意識という
「通り道」を通って形成されるものなのかも知れません。
そもそも「現実」の定義を
本質の方向に向けてたどっていくなら、
この世で巻き起こる
あらゆる外的な事象は、
人の認知無くして存在し得ないのですよね。
認知されなければ、そこには何も存在しないのです。
事象が先か認知が先か、
この疑問の答えは
卵が先かニワトリが先かという
問題のように思えますが、
たとえ何かしらの事象がそこで起ころうとも
誰かしらがそれを認知しなければ
その事象が起こった事を知る者など誰もいないわけで、
とすればその事象は
存在しなかったものとして
永遠に誰からも認知される事はないのでしょう。
言い換えるなら
「認知」こそが事象を形成し得る
唯一、根源的な力なのかも知れません。
人にはそれぞれ、各個のものの見方があります。
つまり十人十色の「認知」がそこにあるわけで、
ということは
十人十色の「事象」がそこにはあると言っても
良いかもしれません。
僕らの外的世界と言うものは
もしかすると
僕らが思っている以上に
自身の内的世界と深く繋がっており、
その内的世界の揺らぎは
外的世界のそれと
どういいうわけかシンクロしているのではないか。
多発する同じようなニュースを
見聞きする度に
そんな事を考えずに入られません。