イデアとエロース

昨日と続く内容でもあります。

「イデア論」のお話です。

今、こうして起きている
現象や、そして現実、物質といった
目に見えるものもは
「現象界」という世界に存在し、
全ては「イデア界」に「イデア」として
元からそこにあったものだ、というもの。
これが「イデア(論)」です。

「イデア」のある場所というのは
無限に広がる自然の摂理の中のようなもので、
それを知ることはできません。
「イデア」は知るものではなく
思い浮かべる(想起する)ことで
その存在を感覚的に「想像」して
感じるものと言えるかもしれません。

人や人の心という概念もまた
不完全な形ではあるものの
イデアの発現の一つであるとされますし、
不完全であるがゆえに
その「イデア」の発現たる完璧さを
人が求めることは
「エロース」と呼ばれます。

実際の定義としての
「エロース」というものは、
主に、愛や恋、性愛を意味しますが、
それもまた思うに、
己の不完全さを補完するために
不可欠な「他者」という存在の認識、
というところまで拡張するなら、
人は「イデア」を実現するためには
人同士、愛し合わなければ
それは叶わないとも言えるのでしょう。

愛すべきものを
その心に想起させなければ
「イデア」は
『愛そう』と現れないのです。

人は愛す時、
想起(アムネーシア)されるところの
「イデア界」は
愛で満たされるのです。

さて、ここで問われます。

誰を愛すのか、と。
いや、自分を愛すのか、とも。

愛すのは、あるいは愛されるのは
どちらの誰で、
自分はどこにあって
愛であると言えるのか。
そして、
果たして「他者」は本当に他者なのか。
「他者」もまた
自分の認識に於いては
自己の一部として想起し、
愛そうとするではないか、と。

これはただの自我肥大でしょうか。

僕はそうは思えません。

むしろ「イデア」の理想は
ここまで肥大、いや
拡張させなければ認識できないと思うのです。

「エロース」はそれを昇華し、
「アガペー」となることで
「イデア」に通じるのでしょう。

「イデア」とは
本来、人同士の繋がりあいの中に
普遍的に満ちているものであり、
自己と他者を統合したところにあるはずです。

ならば、今この世に於いて、
「イデア」が顕れない、
つまり隠されてしまい、
その存在すらも疑わしいこの
現状において、
もしかすると
イデアの存在を
忘却の中へと
押しやった人たちがいるのかもしれない。

「アガペー」に先立つところの
「エロース」をともすれば
貶め、軽んじようとしてきた
人の宗教観や倫理観の間違いは
「イデア」の発現を阻まれてきたのかもしれません。

いつしか
「エロース」は
ポルノと同義の意味を持つようになり、
それはやがて
生きることそのものへの原罪へと繋がっていきます。

1000年も昔の
キリスト教のような宗教観がそれでしょう。

「エロース」とは本来、
「アガペー」へと至り、
「イデア」を実現するための
初歩的な衝動であり、
それは脈々と親から子へ通じて
半ば本能的に
連綿と語り継がれるはずの
命の営みに他ならないはずなのです。
そして当然、そこには
セクシャルな意味も含まれるでしょう。
むしろ、生命とは
そのセクシャリティから生まれるものであり、
そこに「原罪」を負わせようという考え方自体が
いかにナンセンスなことでるかわかるでしょう。

「エロース」に原罪を付与するべきではなかった。

命は皆、
『愛し合った結果として』
ここに存在するのであって、
『決して後めたい結果として』
生命が存在しているはずなどないのだということ。

端的に平たく言えば、
そもそも生命にとって
セックスこそが「イデアの発現」
であるということ。

セックスによって
人は「イデア」を垣間見ることができるのです。
人がイデアを認識するための
初歩的かつ原初的な方法こそが
本来のセックスの意味であるのでしょう。

それは
互いに想起し合って生まれる
イデアです。

ただ、「イデア」とは
善きものだけではないのだということも
知っておくべきでしょう。
悪しきものもまた
「イデア」に含まれる概念です。

世の中には、
巧妙に「イデア」から目をそらせるような、
そしてその「イデア」への足がかりたる
「エロース」そのものを
禁忌のものとして、
その「イデア」に触れさせないような
仕掛けが沢山あります。

そして「エロース」に達することができないから
「アガペー」さえも遠いのです。

自分の中の「欲」でさえ
「イデア」のあり場所について
間違うよう、そののかしたりもするのです。

自分の見る「エロース」の先にある
「イデア」とは何であるのか。
そこに「アガペー」はあるか。

魂はそこへ選り分けられていくのです。

今、こうしているうちにも
思った通りに
「イデア」は想起され
とどまることなく
湧き出でて、
それは「現象界」へと転写されるのだと
いうのです。